作品名:吉野彷徨(W)大后の章
作者:ゲン ヒデ
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 天武七年(七六八)春、斎宮が倉梯川のほとりに完成した。次の斎王の修行のための社である。
 ところが、天武は悩んだ。阿閉が草壁の妃に決まったのである。皆に不服が出ぬよう、くじで選ぶと皇女らに公言した手前、もう一人の補欠の十市を外すかどうか、迷ったのである。
 
 重い腰を上げ、十市の住まいを訪れた。
 母親・額田が出迎え、中にはいると、乳母が甲斐甲斐しく八歳の葛野皇子の髪を結っている。まだ、みずら(左右に8字形に結う髪型で、当時は子供用)にしているので、天武は、
「そろそろ、元服させて、冠下のもとどりにさせようか」

 この乳母は、生まれた時からの葛野の世話をしていて、一族は葛野氏である。
 生まれた子の世話を、家来の家族の娘に任せる習慣ゆえか、高貴な女性は、親子の情愛が、どこか薄くなる傾向があった。

「陛下、皇子は、漸く落ち着かれて、夜の怯えは出なくなりました」と乳母が言うと、
「幼い葛野の心に、あの乱で付いた傷が、ようやく癒えたか」
「それにしても、倭皇太后さまは、皆を、近江の宮から出させて、ご自分は、宮の火柱とと共に亡くなられましたが、なぜ……」乳母の話の途中、額田が止めた、
「これこれ、葛野が、また思い出すではないか、おしゃべりを止めて、葛野を連れて外へ出ましょう」
 気を利かせて、額田は、夫と娘の二人きりにした。

父は藁布団に座り、
「先ほどの話だが、倭姫さまは、なぜ、賢所に火を付け、覚悟の死を選んだのだろう」
 すると、十市、
「母と共に、止めに駆けつけましたが、こういわれました、『韓人(からひと)の庇護の元でおめおめと生きては、父や皇祖に顔向けできぬ』と。だから王家の徴(しるし・三種の神器)と共に、火の中に投じたのでしょう」
「韓人……そうであったか」天武は、嘆息した。
 
 倭姫の父・古人大兄王は、にせ皇族の漢皇子(あやおうじ・大海人皇子)に不快感を持ち、陰で「韓人」と蔑んでいた。で、入鹿の事件のとき、大海人が入鹿を槍で刺し殺すのを目撃し、屋敷に逃げ帰り、『韓人が鞍作を殺した。恐ろしい』と震えていた。自分も大海人に殺される、と思いこんだのである。
 皇族たちは、親から子へと、密かに 天武の出生の秘密を、伝えていたのである。

 話を変えて、天武は、
「大伯が、伊勢へ行って五年だが、そろそろ交代させたいが、次のお前だが、『既婚者では困ります、未婚の皇女を』と神宮側に言わせようか」
「いえ、神前でのクジに当たった以上、引き受けます」
「無理をしなくとも……、そうか引き受けてくれるのか、やれやれ……、葛野も連れて行かそう」ほっとした父に、
「いえ、あの子は、父上に預けます。離れていて、反逆されるかと疑心暗鬼になられた父上に、あの子まで、殺されるのはごめんです」

「十市!そんなことはない。何度も言うが、伊賀を自分の子のように可愛がっていただろう。あの時は、やむをえず、起(た)ったのだ。……幸いにも、伊勢大神(おせのおおみかみ)のご加護で生き延びたが……」父の最後の部分の独り言を、娘は聞き漏らしていなかった。
 付け加えるように父は、
「実はな、高市が、『伊勢での役目を終えた後でもいいから、 是非ともお前を妃にもらいたい』と言っているが、……無理にとは言わぬ。まあ考えていてくれ」
 その日から十市は、暗惨たる気持ちを、持ち始めた。
 

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