作品名:吉野彷徨(U)若き妃の章
作者:ゲン ヒデ
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 間人が亡くなった年の年末、大原の鎌足宅への弔問の帰り道、馬上の大海人と綱を持つ嶋は、重苦しい気持ちであった。

 孝徳帝の御落胤の定恵を除け、との天智帝の命により、鎌足は最愛の長男を、毒殺してしまったのである。天智にそれをそそのかしたのは、大海人であった。

「殿、申し訳有りませぬ」と嶋が口を開くと、
「やはり定恵は、軽大王(孝徳帝)の御落胤ではない。死に顔には、たしかに鎌足のおもかげがある。兄にそそのかす前に、定恵に会って、確認しておくべきだった」

「定恵さまの唐へ渡る前、有間皇子が飛鳥寺に訪れて、てっきり殿の秘密を話したと思いましたが、讃良姫さまへの贈る髪飾りを、唐で買い求める依頼をしに行っただけとは」
「そういえば、有間に、恋人には何を贈れば喜ばれるか、と聞かれて、髪飾りがいいのではないか、と答えたような気がする。定恵との話で、わしの名が出たのはそれだろう。……ああ、聞き込んだ猿を叱るなよ。あやふやなことには、裏付けが必要ということだな」

「それにしても、内大臣(鎌足)は、定恵さまを先々帝の御落胤のうわさを、なぜ流したのでしょうか」
「子孫の繁栄のためだろうが、軽大王(孝徳帝)が亡くなると、状況が一変したので、定恵を出家させたのだろう。思惑が外れて、いまさら自分の子だ、と言い直しもできなかったのかな。始末を命じられて兄に、『先々帝の子ではありませぬ! 我が子に間違いありませぬ!』と泣いて弁明したが……。すまぬことをした。嶋よ、わしは、我が出生の秘密を知った者を除くのは、もう止めようと思う。知られても、もう、世人は信じまい」
「そうですなあ、女帝さまも亡くなられ、帝だけが知っておられますが、殿の秘密と絡む、実の兄・入鹿の殺害の秘密の共有で、誰にも漏らさぬはずですから」

「それにしても、この髪飾り、どうしたものか」
 大海人、懐から出した、錦の袋を眺める。
 帰国した定恵は渡す相手の有間が処刑されているので、処置に困り、妹・八重にかんざしを与えたのだが、そのいわくから八重は、帰り支度の大海人に渡したのである。
「讃良に渡すには、はばかられるなあ……。ああ、十市が伊賀(大友皇子)の妃になるから、祝い品にしよう」

「殿、あの八重という少女、妻になさるので」
「ああ、鎌足の申し出は、すなおに受けようと思う」
「殿は、小便くさい娘ごがお好きですなあ」やや、軽蔑ぎみに嶋がいうので、
「何をいう! 我が家を守るため、多くの家と姻戚関係を作っておる。そのために無理をしておる」
「ですが、生まれるお子が多くなりますと、将来のご負担が大変だと思いますが」
「そうよなあ」考える大海人に、
「いっそ、皇弟である今のうちに、陛下を暗殺なされては」
「嶋、ぶっそうなことを言うな!」
「ならば、お妃を増やすのを、お止めになっては」
「いやだ、この楽しみ、止められるか!」
「やはり、本音は……、ははは」
「謀ったな、嶋、ははは」
 大海人も笑った。

 そして、かんざしを懐へ戻した。
 (後、十市が自殺するとき、このかんざしを使うのだが……)
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