作品名:吉野彷徨(W)大后の章
作者:ゲン ヒデ
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蛇足ですが、この小説を書くために、柿本人麻呂について考えたことを、ブログに載せましたが、それを一部、引用します。
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「稗田阿礼の正体は藤原不比等だ」との説は、だいぶ昔、読んだ本に書いてあったが、その理由として、
1、恩人、鎌足の息子を、天武天皇は、身近で可愛がっただろう。
2、古事記の上代の神々の話に、持統、文武と不比等の主従関係を思わせる出来事が書かれているが、不比等がちゃっかりと、自分と皇室との絆を宣伝したのだ。
3、不比等は初め「史」(ふひと)(歴史に関わる役人を意味する)である。
だったか。
私の新説でも、説明できることがある。古事記に、詳しく出雲の国譲りの話が載っていることである。石見の国出身の柿本佐留(猿)が家来で、隣国、出雲の国の神話を詳しく不比等に語っていたなら、辻褄が合う。
が、柿本人麻呂=藤原不比等、の説で困るのが、人麻呂が太宰府まで瀬戸内海を船旅行で往復して、多くの旅の歌を創ったことである。不比等の経歴にはない.
ところが、不比等は、太宰府にも関連する事件を引き起こしている。
太宰府師(そつ=長官)美努王の妻との略奪結婚である。
主人が筑紫に赴任中のとき、橘千代なる女性と不倫をした後、妊娠したから結婚したか。
が、いくら、持統上皇の寵臣でも、何らかの左遷があるはずだが、出世している。
3人の子持ちで、宮中で勤めていた橘千代と懇ろになり、光明子(後の光明皇后)を妊娠させた時、他の用事にかこつけ、太宰府へ船旅で行き(陸旅では、諸国の国司に知られるか)美努王に離縁状を書くのを頼み込み、形式上問題がないようにしたのであろう。
(持統上皇の口添えの勅令も携えたか?)
薩摩の現地役人らが反抗しだしたので、処罰するようにと、太宰府へ朝廷からの使者が700年6月に行っているが、その役を不比等が引き受けたなら、光明子の701年の誕生にも辻褄が合うが。
柿本人麻呂が不比等だという私の説の展開なら、702年1月以降(大伯の死後)は、歌集への書き込みは、本来、ない。
で、最後のページの1つ前(綴られた木簡の最後の1つ前)には、おそらく
讃岐の狭岑(さみね)の島にして、石の中の死人(しにひと)を見て、作る歌
玉藻よし 讃岐の国は…(中略)… おほほしく 待ちか恋ふらむ 愛(は)しき妻らは(万2-220)
妻もあらば摘みて食(た)げまし沙弥(さみ)の山野の上(うへ)のうはぎ過ぎにけらずや(万2-221)
沖つ波来寄る荒礒(ありそ)を敷栲の枕とまきて寝(な)せる君かも(2-222)
そして、最後のページ(左端の木簡)に(太宰府への旅に同行した部下の)
丹比真人(たぢひのまひと)**、吾が心に擬して、報ふる歌
荒波に 寄り来る玉を 枕に置き 我ここにありと 誰か告げけむ(2−226)
(荒波に 打ち寄せられて来る玉を 枕に置き わたしがここに伏せっていると 誰が知らせてくれたのであろうか)
と書き込まれていた。(**は笠麿か小輔などの官位か)
708年(和銅8)5月末、石見国司に出世していた、柿本佐留(猿)の死亡の知らせを藤原京の妻が、知らせにきた。
師匠の時世の歌を聞いた、不比等は、最後の木簡を裏返し、(その時、丹比真人の続きの字が、指で消された)
師匠(佐留=猿)の歌の
鴨山の 岩根しまける 我をかも 知らにと 妹が 待ちつつあらむ
を書き、続けて、その妻 依羅娘子(よさみのをとめ・丹比=多治比一族の出)の和歌2首を聞き込み、書き込んだ。
そして、裏板になった、丹比真人笠麿の歌の次ぎに、自分の歌(おそらく最後の作になる)
天(あま)さかる鄙の荒野(あらぬ)に 君を置きて 思ひつつあれば 生けりともなし
という凡歌を書き込む。(和歌の順番が、変わってしまったのである)
そして、師匠(柿本佐留)の墓前に、歌集を供えるよう、 依羅娘子 に言付けた。
歌の作者が自分であることを放棄し、歌集の作者が 柿本佐留 にしようとしたか、歌集の運命を天に任せたか。
預かった依羅娘子は、不比等の意に反して、大事に持ち続け、いつしか大伴家持の手に伝わった。(大伴家は、多治比一族と姻戚関係があった)
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蛇足の蛇足ですが、石見といえば、石見銀山が連想されますが、多治比一族は鉱山開発や金属精錬に長けていた一族だから、石見国司(柿本猿)は、鉱山探索の指揮中にうっかりと足を滑らして、事故死する。目前に石見銀山があり、もう少しでの、宝の山を、発見しそこねたとしたら、ロマンですねえ。……水死刑より、ましなフィクションですが、……
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