作品名:ここで終わる話
作者:京魚
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 翌日。タンラートはシェイの部屋を訪ねた。いつもはシェイの方からタンラートを呼びに来るので、実際タンラートがシェイの部屋に来るのは始めてのことだった。
 ドアの前で数分悩みながら立ち往生を続けていると、部屋にいると思い込んでいたシェイが、廊下を歩いてやって来た。
 普段のシェイからは考えられないような鋭い目付きで床を睨みながら歩いて来て、タンラートの存在を発見すると、ありえない現状に一瞬その瞳を不振に歪めた。
 たどたどしい言葉のやり取りの後、タンラートはとりあえず部屋に入れてもらった。
 しかし入ったはいいものの、どんな話から切り出そうなど用意してこなかったため、いきなり会話に行き詰まる。こういう場合、シェイは率先して会話を盛り上げてくれた。だが今のシェイにそのつもりは皆無だ。
 「シェイ」
 切り出さなければ何もはじまらない。タンラートはいきなり本題を持ち込もうとした。親しい友の名を呼ぶのにこんなに億劫だったのは初めてだった。
 「なんだよ」
 これほど険悪な彼を見たことがあるだろうか。思わず息を飲んでしまうくらい彼を包む雰囲気がいつもとはまるで違っていた。
 「あの…」
 タンラートは言葉に詰まってしまった。予想以上のシェイの刺々しい声音に、ショックで声がでない。
 一方、なかなか言い出せないでいるタンラートに痺れを切らしたシェイが、机を叩いて立ち上がると、上から見下ろすように驚いたタンラートの顔を無表情に睨み付けた。
 「悪いけど帰ってくれるかな?シャワー浴びたいんだよ」
 いつものような柔らかみはなく、その声は冷たくタンラートの胸に刺さる。
 なぜだろう。
 覚悟はしていた。シェイが自分に憤りを感じて避けていたことも。それをわかってこうしてシェイに会いにきた。どんな冷たい態度をとられてもしかたがないと割り切れると思っていた。
 しかしどうだろう。唾が飲み込めない。震えが止まらない。
 今までの経験で言うと、自分がこうならない自信はあった。
 きっと、昨日まではこんなことはなかった。ロブとあんな話をするまでは、たとえシェイであってもこんなに心が潰れそうな圧力を感じることはなかっただろう。
 「シェイ!」
 タオルを掴みさっさとシャワーを浴びようとするシェイに、タンラートが噛み付いた。
 「ごめん」
 ようやくシェイが足を止めた。タンラートに背を向けるように立つ。タンラートも立ち上がり二、三歩前へ出た。
 「ごめん。僕、ひどいことばっかり言って。でもわかったんだ」
 「…」
 「僕は必要なものがわからなかったんだ。不必要なものばかり選んでいたから。そのうち何が何かわからなくなった」
 「…」
 「でもわかったんだ。僕は、僕には」
 「何もない。何も必要ない。そうだろ?」
 「え…?」
 「そう言いたいんだろう?自分にはなにも必要ない、あの人意外は。って」
 あの人とはきっとロブのことだろう。
 タンラートは言葉を失った。見開いた目が次第に何も映さなくなっていく。心を喪失したように、空洞ができた。
 「…シ…」
 「わかってる」
 シェイは右手に持ったタオルごとシャワールームのドアを開けた。
 「もういいんだよ」
 そう言って、ドアを静かに閉めた。









 今更失ったものの大きさに気付いた。
 「…タナー」
 「…」
 涙が、出なかったのはなぜだろう。
 もう大人だから?
 泣くほどのことではなかったから?
 彼の言った通り、自分には何も必要ないのだろうか?
 いいや、きっと泣き損ねたんだ。
 こんなことになるはずがないと客観視していたもう一人の自分。それが予想外の出来事に正常な運動を停止してしまった。
 「タンラート!」
 突然大声を出され、タンラートは体をびくつかせながら我に帰った。
 「はい!」
 「またか。悩むのは構わないが、仕事中に考え事はやめろ」
 「…すみません」
 今日四度目のお咎めにも、僕の心は素直に仕事をさせてはくれなかった。
 彼の言葉がこんなに重荷になるとは思わなかった。自然と表情が暗くなる。
 「ロブさん、あの」
 「なんだ」
 「最後に泣いたのは、いつですか」
 「…さあな」
 突然の質問にロブは紙面を追う目をタンラートに向けた。タンラートはベッドの隣で背を向ける形で胸に書類を抱いている。
 「僕は、あなたと始めて会ったあの日です」
 決して優しい態度ではなかったのに、彼の言葉は僕を死への絶望から救ってくれた。
 そんな彼を知れば、いつか彼のように強く生きられるのではないかと思っていた。
 いつしかそれは願望ではなく、目標になった。
 ロブは眉を寄せて目を細めた。紺の瞳ごと頭を反対の窓に向ける。
 「最後に泣いたのは…兄が、亡くなったとき…」
 本当はカンソールに行った晩なのだがロブはあえて言わなかった。自分でもそれは全く説明のつかないことでもあるからだ。
 「兄が殺されたとき」
 振り返ったタンラートが見たのは、今にも泣き出しそうな弱々しい横顔だった。まるで捨てられた子犬のように不安に揺れる瞳。
 始めてみる彼の怯えた表情はタンラートから言葉を奪った。
 「そろそろ潮時かもしれないな」
 ほんのわずかな悲しみにくれた瞳を奥底にしまい込むと、ロブは目を細めて敵意を感じさせる面を作った。
 いつもと様子が違うのは、今のタンラートでも一目瞭然。
 「俺を教えてあげよう。そうしたらそんな些細な悩みは、すぐにでも消えていってしまうから」







 本当に心を通わすことができないからこそ、人間は完璧なのかもしれない。










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