作品名:吉野彷徨(U)若き妃の章
作者:ゲン ヒデ
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 翌日から、あわただしく、多くの軍船が百済をめざし、出航する。
 港では、かざされた天蓋に立つ天智に、兵らは、剣、槍、弓矢を掲げ、「大王(おおきみ)大王!」と忠誠の鬨の声を上げ、続々と船に乗り込む。
 そして、讃良ら王家の女性らは、天蓋のそばで、手を振り、見送っていた。
 
 見送りが一段落したとき、天智は、讃良を呼んで、昨日、声を荒げたことを謝った。
「勝つために、おまえの考えたことを、悪し様に言って、悪かった」
「気にしていないわ」と言い、讃良は、夫・大海人がどこにいるのか、父にきく。
「ああ、あいつは、兵糧集めに飛び回っている」
 
 讃良は、日ごろの疑問をきいた、
「危ない目に遭わないけど、なぜ、うちの人に将軍の役目が当たらないの? 」
「ああ、大海人は戦場にいると、病が起こるそうだ」
「病? 何の病」
「敵でも、味方でも、人が殺されると、心の臓がおかしくなり、息がつまって死にそうになる、といっている。だから、他の者から、将に推されないよう、目立たなくしておる」
 讃良は、昨日の軍議での隅の夫の姿を思い出す。
「なんでも、入鹿の祟りだそうだ」
「入鹿の祟り?」
 讃良は、考え込んでいると、父は
「明日、大海人が戻るから、聞いて見ろ」

 翌日の夕、讃良は姉・太田、妹・大江と共に、大海人を迎えて、夕餉をした。太田は赤子に乳を与えながら、座にいる。

 食事の前、大海人は、佐伯と草壁を抱いて可愛がろうとするが、子らは泣き出す。日ごろ、接していないから、人見知りされたのである。
侍女が子らを連れだす。

 スズキの身をほじり、3人の献の杯を、大海人、ちびりちびり飲んでいると、讃良は、父から聞いた入鹿の祟りをたずねた。
 箸が止まり、口ごもっていた大海人、やがて、話し出す、
「お前たちも、うすうす知っておろうが、わしは、母(斉明)が産んだ子ではない。厩戸の皇子(聖徳太子)の孫の高向王の連れ子のはずだが、……」
 
 高向王が蘇我蝦夷と、宝(後の斉明女帝)の愛を争い、勝ったが、暗殺された、と幼い頃、守り役(嶋の父)から言い含められた大海人は、復讐のため、仲間を作り、板蓋の宮での、入鹿の暗殺を謀った。
 
 空の御簾に向かい、蘇我倉田麻呂が上奏文を読み上げるとき、飛び出す暗殺役の者がおびえ、計画どおり動かないので、中大兄が脱刀し、入鹿に斬りつけた。
「直接、人を殺すという穢れで、葛城(中大兄)は、帝位の資格を失ったが、あのとき計画通りに進んでいたら、すぐに 葛城 は即位し、わしも後々の苦心をせずに済んだものを……」
 
 中大兄が、斬りつけると、あわてた大海人は槍を抱えて物陰から飛び出し、入鹿を突いた。場所は頸動脈で、吹き出した血しぶきが、大海人の両目にかかる。目が見えない大海人は足音を聞く、
「この騒ぎは何事じゃ」女帝の声がした。そして虫の息の入鹿、
「おものきみ(母さま)おものきみ、我が子のわたしに、何故……」いいかけ、絶命する。
「入鹿!ああ……悪夢どおりに、入鹿が……。 葛城! 漢(大海人)! まさかお前たちが!」女帝は、崩れおちた。

「あのとき、もしかしたらと思っていた、わしの出生にまつわる真実がはっきりと……」
 大海人の父は、聖徳太子に仕えた、忍びの頭目で、太子と妃が、馬子の子・蝦夷に毒殺されたと思い、復讐の機会を得るため、宝に言い寄った。その目的を蝦夷の家来にさとられ、殺されたのである。

「入鹿を敵(かたき)の子とばかり思っていたが、母と蝦夷のあいだに産まれた子とはな。母は入鹿の未来の惨劇を避けるため、蝦夷に引き取らせ、代わりに、わしを自分のことして育てた。それが、予知どおり殺された。それも、われら弟らが殺したことになる」
 それに気づくと、身震いがおこり、動悸が激しくなり、息が詰まりそうになる。
 大海人は、現代の病名でいうと、パニック障害を起こしたのである。

「古市(大兄皇子)の暗殺隊の見届け役のときにも、その病が起こってなあ」
「それで、軍議の席では、隅にいるのね」讃良は納得した。
「ああ、もし、わしが軍の指揮をしていて、味方でも敵でも殺される者を見て、そんな失態をすれば、味方が総崩れになる。……讃良がいった金城奇襲策に、皆が賛意して、夫のわしを総大将にでも祭り上げないかと、ひやひやした」
といい、太田に杯を向け、うながす。
 
 酒を注ぎながら、太田、
「あなたさまの代わりに讃良が、総大将……あの気長足姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)のように男装して、軍船の先頭に立って、『皆の者、よいか、目指すは新羅の都、金城じゃあ』なんて言って、指揮すればおもしろいでしょうねえ」

 姉・讃良にあこがれの感情を持っている、妹の大江も、
「わあ、お姉さまのみずら髪の軍装姿、想像するだけでも、わくわくしちゃう!」
といい、姉をみる。
「そうねえ……、あ! あのとき、父に『私を奇襲の総大将にして』と言っとけばよかった」心から思っている讃良をみて、大海人
「おいおい、わしの立場はどうなる。恥ずかしさで、その皇后の夫……、何という、スメラミコトだったけ?……みたいに早死にしたくなるぞ、ははは」

 大江が、
「あの皇后、腹に石を巻いて産期を遅らしたというけど、本当かしら」
 彼女は妊娠初期である。その連想で言ったのである。大海人は、忙しい中、こまめに種まきをしていた。
 すかさず太田が、
「とんでもない、そんなことをすれば流産よ!」
「ふーん、じゃあ、三韓征伐は嘘なのかしら」と大江。
「四百年前から百五十年前までの間に、二十回以上、新羅を攻めたと、諸家の記録にある、と聞いたが、どれにあたる話だろうなあ……、暇ができたら、難波(大阪)より先の創建の、ここの住吉社で、古記録でも見せてもらうか」
 
 だが大海人は、この社での調べごとができなくなる。白村江の敗戦という事態がおこるのである。
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