作品名:続 銀狼犯科帳A(ぎんろうはんかちょう)
作者:早乙女 純
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壱
「大名行列は長くて遅いし経費かかる。碌なもんじゃねぇな」
銀狼こと久松定行は、長崎街道八番目の田代宿(対馬藩飛び地)にて密かに朝鮮漢方薬の開発状況を長崎探題として視察し、公務を終えた後は身代わりを駕籠に残し一人旅を楽しんでいる。
「遠山の奴、儂(わし)の文句を言ってるな。殿が駕籠に乗らず一人で長崎まで歩いて帰るなど言語道断、なんてな」
定行は松山藩遠国奉行、六番頭の一人、遠山九左衛門の顔を思い浮かべた。
定行は道の傍らの切り株に腰おろし、背中に縛り付けた柏の紐解く。
「でかい握り飯じゃの」
と前夜に塩田の旅(はた)籠(ご)女中に握らした握り飯三つに唾を飲み込む。
「その前に喉の渇きを癒さなくては、せいては事を仕損じる南無阿弥陀仏」
と定行は瓢箪を取り喉をならす。
すると音もなく男の邪悪な手が伸び、貴重な握り飯を掴んだ。
「己、この極悪非道なこそ泥め!」
と定行は邪悪な右手を掴むと吊し上げた。
途端に拍子抜けする甲高い悲鳴。
「お武家様、お許し下さい」
「えい許さん。銭を取る奴、命を取る奴は、心底欲しかったのだろうから許してやってもいいが、奇麗な女中が握った塩田の飯は、もう弐度と食べれん。これが許しておけようか」
「そんな御無体な」
「邪悪な右手を持つ者を赦免する仏の悟りは、生憎わしには持ち合わせておらん。極悪人よ覚悟せよ。抜けば玉散る氷の刃!」
「千代様」
小男は困惑した声を横たわった武家姿の女に投げかけた。
「千代?、武家の女か?」
「小六、何かしたのですか」
定行は若い女には優しい。
定行は千代をゆっくり起こし瓢箪の水と握り飯を三人で分け合って食べた。
「空腹で気絶してしまいました。申し訳ありません」
千代は誠にすまなそうな謝罪する。
「まぁ良いって事よ」
定行は眼を細めて云う。
既に六十八になる定行には嫡男も末娘も四十は越えている。
二十歳そこそこの娘と道中を行くのは久々の事である。なんとなく晴れやかになってしまう。
「お願いがあるのですが」
千代は長崎に入るまで同行を申し出た。
「なんでだい?」
「無事、関所を通過するまで私を貴方様の娘として通して頂きたいのです」
「うん悪くない話だが、今ひとつピンと来ないの」
定行は腕組して千代と一緒に歩き続ける。
「旅は道連れと申すから、そなたは、わしの妻という事で、どうだろうか」
「まあ」
千代は顔を赤くした。
「お武家様、それは無理でございますよ。孫と翁の年の差がありますので」
「邪悪な右手の御主(おぬし)には聞いておらん。関所を無難にくぐるのに、奉公人と女中では様にならん」
「おっしゃる意味わかります。そうさせて下さい」
「それはなりません千代様」
小六は定行に睨まれて咳払いする。
「さて日が暮れぬうちに多良岳を越えよう」
定行は率先して坂を昇る。
一向が峠を越えた頃には夕方になった。
青々とした脇道の傍らに湧水で池になっている所を見つけると定行は腰を降ろし手で口の渇きを潤す。
定行は風に挨拶する、かんざし草を見る。
定行は少し離れて汗をぬぐう千代に、かんざし草の白い花をちぎって浮かべた。
千代は水面に花が一つ流れて来て喜ぶ。
付き人の小六は能面であった。
日が暮れて長崎街道二十番目の湯江宿にある木賃宿に泊まる事を余儀なくさせられた。
「出来れば諫早宿まで行けば温泉のある旅(はた)籠(ご)が泊れるのだが仕方あるまい」
と定行は小六の作った汁を食べながら語る。
木賃宿は原則素泊まりで自炊である。
「小六よ。お前さんは板前かい?」
「いいえ」
「なかなかの腕だ。この汁の中身はなんだい?」
「どじょう、でございます」
「そうかい。大したもんだ」
と定行は目を細める。
その夜は千代を挟んで定行と小六が離れて寝た。
木賃宿の外では風もないのに草木が揺れている。
弐
一夜明け、定行一向は湯江宿を後にして諫早宿に入る。
日が南に高く昇った頃、橘湾が見えてくる。
千代が額の汗を布で拭う。
定行は怪訝な顔をする。
彼女の視線は雲仙より南の方に想いをはせているかのようだったからだ。
定行は矢上の関所を率先して入る。
「待て。その一向」
役人二人が棒を交差させて行く手を塞ぐ。
「わしは今治藩士、今治栄吉郎。先を急ぐ」
「ならぬ」
と物頭(ものがしら)役人・立花源之丈が制止するが、定行を見て絶句する。
「あの方は長崎本奉行四代将軍特別補佐の松平久松隠岐守定行である。粗相ないように」
と検視で参った鍋島藩郡奉行から聞かされていたのを思い出したからだ。
将軍特別補佐で思い出したが、後年、水戸光圀公が副将軍になるが、定行が四十一歳の時に生まれ、この物語の時点では二十七才で、ようやく藩主になったばかりである。
さて立花源之丈は我に返る。
事情知らぬ若い定番は続けて詰問する。
「横の女は何者だ」
「わしの妻・千代だ」
「なに妻だと」
小役人の驚きは隠せない。
「こら。そんな孫娘みたいな年の差で妻であるはずがなかろう。我らを愚弄するにもほどがある」
「これ千代。お前がよそよそしいから誤解を招いた。もっと近こう寄れ」
定行に言われて千代は定行の大きな肩に身を寄せた。
「うん。初(うい)奴じゃ」
定行は高笑い。
「どうじゃ物頭・立花殿、これでも嘘と思われるか」
定行はあえて物頭の名を告げ恫喝した。
立花は咳ばらいを三回する。
この意味深な咳払いで定番は急ぎ、
「何をしとる。長崎を出る事はならん。帰れかえれ」
と優しく手を長崎に招き入れた。
突然の振る舞いに千代は困惑していると、
「千代、長崎から出てはいかんそうじゃ。仕方あるまい後ろ向きに戻ろうとするかな」
と定行一向は顔を今来た道に向け、後ずさりして関所をくぐり抜けた。
この洒落た行為は江戸中期以降、箱根で良くあったらしい。
参
あっけなく無事に矢上関を通過し、長崎に向かって街道随一の難所である日見峠を登る事になった。
定行一向の人影が長く伸びた坂に、二人の女三味線の旅芸人が演奏しながら影を追う。
道端に蒲公英(たんぽぽ)が鮮やかに咲いている。
筑紫では黄色い花びらが簪のように華やいで見えるので金(きん)簪(さん)草(そう)とも呼ばれている。
背格好の似た旅芸人の彼女らは未婚娘がつけたがる金属製ビラビラ簪(かんざし)を同じように挿し、髪を束ねる紐の色だけ青と赤に違えていた。
五人の距離が縮まるほどに三味線のヘラ状の撥(ばち)は容赦なく弦を弾(はじ)き、突然、弦の一本が斬れる
「おい。何しやがるんだ」
定行は空を斬る二つの仕込み刀を左右に振りはらった。
彼女らは三味線を地面に捨てると、居合い斬りで襲い出す。
「おまえら何者だ」
と問い詰めるが問答無用である。
金属の弾ける音が山々をこだまする。
刀に驚いた千代が後ずさりし、石が崖から落ちる。
千代の悲鳴に定行の気が散った瞬間、赤紐で束ねた方がまっしぐらに千代を襲う。
「いかん」
定行は、すれ違う瞬間に赤紐を掴んだが、制止までには至らない。
「しもた!」
定行が舌打ちした直後、小六が棒で倒した。
咄嗟に小六は道端に落ちている棒で上段に構えて打ちおろしたのだ。
「見事だぞ。小六」
定行がそう安堵する束の間に青紐の剣が空を斬る。
「おめえら儂(わし)に恨みでもあるのかい」
と叫んで刀を振り払った。
「確かに儂はおめらの、お母さんぐらいの年増には悪さはした覚えはあるが、おめらに恨まれる悪事は働いた覚えがねぇぞ」
青紐は草鞋を横ずりし、銀狼の左側面の隙を窺っている。
「それもだ。銭掴ませて握り飯を作って貰うのが関の山だ」
青紐は悪びれず、さらに左側面にずれる。
定行は着物の裾から毛むくじゃらのふくらはぎを見せながら対峙する。
「女、それとも二人に用事があるのかい?」
青紐の簪のビラが西日に反射し一瞬、定行の視界を妨げた。
女は目にも止まらぬ太刀を吹きあげるが、銀狼の剣は見事に振り払い、皐月の空高く舞い上げ地面に突き刺さる。
女は色をなくし仲間を見捨てて脱兎のごとく逃走した。
「千代、こいつに覚えがあるか」
千代は顔を横に振る。
「さて日が暮れる。先を急ごう」
「殿、この女子(おなご)はどうします?」
「心配あるまい。儂らが去れば仲間が直ぐ介抱するだろうよ」
定行は先に歩きだす。
青紐女が逃げた松林付近から入れ違いに、町娘が一人現れた。
「あら?」
町女はすれ違う青紐を怪訝に振り返る。
町人の女らしい髪結いなのだが、紫の頭巾をちょいと粋に被せている。 身のこなしも良くスリっぽいのだが、髪結いの紐(髻(もとどり))が二本なっており、いかにも初心者っぽいのが妙に怪しい。
「有難うございました」
千代と小六は頭を下げた。
「良いって事よ」
長崎目前にして又も日が暮れてしまい、やむなく夜は日見峠を下った善覚寺に宿坊した。
「とても呑気な方だ」
小六は呆れた。
本堂は十畳の広さ上で、部屋の真ん中で大の字になって高いびきをかいて寝入っている。
小六は定行と離れて横になっている千代殿の方を見る。
彼女も寝れない。
本堂には、もう一人、紫頭巾の女も宿坊していた。
やはり寝れないようである。
四
日が昇ると、定行一向は寺を後にし、一の瀬橋に下る。
一の瀬橋は、承応二年(一六五三)唐通事・陳(ちん)道隆(どうりゅう)の私費で出来た清朝風の石橋で、遠くから石橋が見えると異国の門をくぐる気分になってしまう。
「千代、おめえも一ついるかい」
定行が沿道の掘りが深く血色がよくな簪(かんざし)売りに目がとまった。
小六は目をそらし、簪売りも眼を合わさないようにしている。
「殿、簪は小六が似たような物をつくれるので結構です」
「ほぉ、この邪悪な右腕は金細工職人かい」
「はい。他にも手先が器用でいろいろと」
「おめえ、武家の女とは違うのかい」
「大江戸日本橋で小間物商を営む大店(おおたな)の娘でございます」
「ほぉ、それは聞いてなかった。屋号はなんて名だ。こちとら野暮用で江戸の日本橋は、ちょいと慣らしたもんなんだ」
「それはお許しを」
「なんか曰(いわ)くつきだなぁ。まぁ良いけどよ」
定行らが去って、紫頭巾の女が簪売りに腰をおろす。
「唯(ゆい)、千代殿の傍にいる侍は何者ぞ」
簪売りは低く凄味のある声で詰問する。
「藤兵衛様、まだ判りません」
「わしを藤兵衛と呼ぶな」
「失礼致しました」
「至急、素性を確かめよ。上総(かずさ)の一派に命を狙われている身代様を我らがお守りするのじゃ。光久公からの厳命ぞ」
簪売りは顎で指図した。
しばらく定行らは歩くと蛍茶屋の赤布に覆われた長椅子に千代を挟んで三人が座る。
「蛍茶屋まで来たら、もはや長崎市中に着いたのも同然じゃ。長崎街道の始点であり終点ぞ。わしの行きつけの船宿も丸山にある。ここで一服申しつける」
「ほんに有難うございました」
千代の返事に定行は上機嫌。
「だんだん夫婦らしゅなったの」
定行は高笑い。
定行らの、さらに奥で頭巾で顔を隠した侍が、脇差を差したお伴を二人連れて茶を飲んでいる。
が、定行の高笑いでむせ込んだ。
「上総様」
お伴が気づかったが、上総は手で会話を制止した。
一方、お茶屋の軒先では紫頭巾の唯が、定行に声かけた。
「旦那」
「おお昨夜、一緒に宿坊した娘じゃないか」
唯は気安く定行の傍に座った。
「あたい唯って云うんだ」
「ほぉうかい。良い名前だな」
「旦那、これから旦那の懐にある物をスリさせて貰うわ。お気をつけて」
「おいおい白昼堂々と名前を名乗りスリでございますと宣言するとは、見上げた根性してる女だ」
「御誉めに頂いて有難うございます。代わりにって云うのもなんですけど、もしスリに失敗したら一晩ご自由に焼いて喰おうが煮て喰おうがお好きなようにして下さって構いませんよ」
唯のオモネリに定行は驚き、千代は顔を赤らめた。
「ほほぉう。面白い自信があるんだの」
「旦那、本当はあたい路銀使いはたして一文無しなの」
「こら、体を押し付けるな、よさんか」
定行は白昼の色じかけに困惑した。
「ねぇ少し路銀を分けて下さいな」
と、言い終わらぬうちに唯の左腕が天高く挙がった。
「やっぱり旦那、あたしの負けみたい」
定行は右手で唯の左手首を握り、左で彼女が持つ葵の紋入り印籠(いんろう)を捥ぎ取る。
「おめぇ本当のスリじゃないな。スリなら髪結びが一本と相場がが決まってるんだ。」
「だから旦那、路銀使い果たしたって云ったじゃないの」
定行は刺青がないのを確認した。
「今日は新婚のめでたい日だ。御赦免してくれるわ。有難く思え!」
「旦那、有難うございます。お約束通り今日一日は旦那に、お仕えしとうございます」
唯は一転、神妙な表情で頭(こうべ)を垂れる。
「女だからって儂はいつまでも甘く見ないぞ。ここの茶代は出してやる。饅頭食べて茶をかっくらったら、とっとと消え失せろ」
定行は懐から路銀をいくらか出し、座卓に叩きつけると興奮したように千代と小六を連れて歩き出した。
唯は素早くお茶屋の小僧を見つけると手招きし、手に何がしか握らせると、
「これあげるから、簪売りのおじさんに出会ったら三つ葉葵の印籠を所持してた、って伝えるのよ」
「三つ葉葵?」
「いいから、それを伝えて」
唯は定行から貰った全てを小僧に握らせると定行の後を追う。
「旦那、待って」
唯は小走りに後を追い、すがり憑(つ)かんばかりの白昼呼び掛けに行き交う街道の失笑を買った。
この定行らの茶番をさきほどの侍らが奥で見ていた。
「とんだ茶番を見せられたな主(もん)水(ど)」
顔を隠した上総が主水に意見を聞く。
「御意」
「あの葵の印籠は尾張三つ葉葵ぞ。この世に三人しか持てぬはず。尾張藩主と今治藩主そして松山藩主」
「上総様、お考え過ぎでは。矢上関所ならびに日見関所の定番にワイロを握らせて聞き出しましたら、今治藩の今治栄吉郎と申す男。どうもケチな武士で恐れるに足りません」
上総は顎を撫でた。
島津藩の二代藩主・光久は、就任当初から不安定で藩内はお家騒動の危険に満ちていた。
光久は初代藩主・家久の次男で側室の子。正室の嫡男は生後半年で夭折し、腹違いの光久が後継者として母と江戸にて人質になる。
が、正室の次男・忠朗は健在。
父、島津家久のお気に入りの家老・島津久慶は、この忠朗と懇意。光久は家老を閑職に追いやり系図からも抹消しょうとしていた。
上総は敵対する久慶の配下であった。
暫くして上総らも定行らの後をつける。
さらに間をおいて茶屋の奥簾が上り、藤兵衛と呼ばれた簪売りの姿も見えた。
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