作品名:勿忘草
作者:亜沙美
← 前の回  次の回 → ■ 目次


第一章

「はじめまして、小沢優子です。」
中年の婦人が話始めた。
「職業は、、、保育士をしています。現在は、A保育園に、二時間だけ、パートタイムで
働いています。かつては、市立の保育園に勤めていましたが、息子をなくしたことにより
退職しました。もう、二度と公立の保育園には勤められません。息子は18歳で、帰らぬ
人になってしまいました。それは、私の責任でもあるからです。あの子は私が殺したよう
なものです。」
「私の責任」というのはどういうものだろう?なぜ、母親が、「私が殺した」といったの
だろうか。
「息子は、勉強とピアノが好きでした。一日中弾いてました。四歳からピアノを習ってい
ましたが、それ以外は、勉強付けで学校のことは何も話しませんでした。たまには友人と
深夜まであそぶとか、そういうこともしませんで、毎日きちんと帰ってきて、勉強ばかり
してました。わたしは、誕生会のようなものも企画していましたが、誰も友達は来ません
でした。息子は、中学生になると、毎日のように「疲れた」と口にし、すぐ寝てしまう生
活になりました。そうして、一年生の一学期の期末テストの後に、『お母さん、僕はピア
ノで音大に行きたいな。』といいました。夫とも相談して、いかせてやることにしました。
しかし、音大の受験がどんなものであるか、私はまったく知りませんでした。ピアノ教室
の先生に伺ったところ、音大の先生が、この町に住んでいて、良い先生だから、紹介しま
す、といい、息子を連れ出してくれました。その先生は、本当に厳しいかたでしたけど、
息子は楽しかったようで、週に一度、元気にレッスンに通っていました。
そうこうしているうちに、高校受験の季節になりました。息子は、音楽高校を志望しました
が、内申点がどうしても足りませんでした。私は、保育士でしたので、とにかく仕事が忙
しすぎて、息子の内申点が、足りないのはピアノばかりして、勉強をしないからだ、と勝手
に解釈して、よくしかりました。息子は疲れたとか、限界だとか言いましたが、今時の子は
すぐ文句を言う、ときいていたので、そんなことは口にするな、屁理屈をいうな、などと返
し、とにかく睡眠時間をけずってでも勉強するのが、中学生という者だ、と、叱り飛ばしま
した。私は知らなかったんですが、その当時、私の母が、まだ生きていて、母が息子を褒め
ていたそうなんです。母は、あの子に対して厳しすぎる、と、よく言いましたが、息子が志
望した高校は、このあたりでは一番すごいというところでしたから、内申点が必要だったん
です。」
「他の方に、相談するとかは考えなかったんですか?学校の先生に相談するとか。」
僕は聞いたが、小沢さんは、涙を流した。
「はい、それが、息子には友達が一人もいなかったんです。もともと人付き合いは苦手なの
かな、とは思いましたが、息子は、学校の授業をこなすのに精一杯で、そんな余裕はなかった
そうなんです。
そうこうしていると、ピアノの先生が、音楽高校ではきつすぎるから、近くの普通科に通っ
たらどうか、とアドバイスしてくださったんです。先生の娘さんも、その高校から音大に
進んだと。進学校ではないから、のんびりしているから、勉強はそこそこで、その分ピアノ
の練習に当てられると。少なくとも、娘さんのころはそうだったようです。それしか情報が
無かったので、そうさせることにしました。偏差値は、とても低いところだったから、すん
なりと入ることができました。でも後になってそれは、間違いだったんだと、何度も悔やみ
ました…。」
小沢さんは泣きじゃくっている。
「様子がおかしいな、と思ったのは、初めての三者面談のときでした。担任の先生がこうい
いました。『ある、音大では、高校を卒業したら、一年浪人して、じっくりピアノを習って
から、受験するときいてますが、うちの高校からはそういう生徒は出したくありませんね。』
と。でも私は、それは、ピアノの先生から聞いていましたし、夫もそうなってもいいといって
いましたから、まったく気にしませんでした。息子もそれは承知していました。
高校に入ったので、私は市の臨時職員の試験を受け、公立の保育園に、勤め始めました。その
ほうが、お金が手に入るからでした。志望していたのは私立の音大でしたので、お金が必要
だったんです。それは確かでした、だから、私も主人も一生懸命働きました。
所が、息子はだんだん笑わなくなっていきました。ピアノの音色も汚くなっていきました。
音大の先生の影響かと思いましたが、息子は口を聞かなくなりました。あとは息子の日記か
らわかったのですが、あの高校は、先生のお嬢様が通ったときとはだいぶ違っていたようなん
です。とにかく、国公立大学に全員はいることが全てだったんです。先生方は徹底的に音大の
悪口を言ったそうなんです。『学費が四年間で一千万円かかる、この高校に来ているのは、お金
がないからきているのであって、そんな大金を稼げる親御さんを持つ生徒はいない、だから、
そんな大金を稼ぐには、お父さんとお母さんは、脳梗塞かなんかになって、大学に行く前に、
死ぬ、犯人はおまえということになる』とか、『この、就職難の時代、音楽なんか勉強した
ってなんの金にもならない、親は働き蜂で死に、お前は銀行強盗をするしか金を得られなく
なり、安定した食事がもらえるのは刑務所だけだ』とか。私も、保育園で上司から、嫌われ
ていて、毎日毎日疲れ果てて。あの子が、受験生になったとき、貧血にかかり、一ヶ月入院
を強いられました。そのとき、息子は、自分のせいで、私が病気になったんだ、と感づいた
ようで、それを事実としてしまい、しかし、音大の思いを捨て切れなくて、本当に本当に、
悩んだのです。私が入院している間に、教師たちは、あの子に『お前が音大に行くのをやめ
れば、母親の病気は必ず良くなる。しかし、続けていれば、お前の母親は死ぬ。』といって
脅かして、あの子は負けてたまるか、と、思って、音大の先生に頼んで、外国人の先生にも
習わせてもらったりして、抵抗していました。それは日記に赤裸々と綴られてありました。
私が退院すると同時に母が亡くなりました。心筋梗塞でした。息子は泣きませんでした。私
は、泣いてばかりいましたけど。母は、息子の日記によると、唯一の息子の聞き役だった様
です。最後に、泣いてはいけないと、息子に言い聞かせて亡くなったとありました。
それいこう、よく家に変な電話がかかってきました。担任教師が、模試の結果を伝え
てきて、『息子さんの可能性を信じてあげてください、音大ごときではもったいない』と、
猫なで声で言っていましたが、疲れ果てていた私は、生返事しかできませんでした。それで
息子は、担任教師に、お前の母親も本当はお前が国公立大学への進学を望んでいる、俺が電
話して聞いたぞ、など言われたそうです。そして、予定通りに、息子は音大を受験しました。
合格することはできました。でも、合格発表から戻ってきて、担任教師が、物差しで息子を
殴ったんです。それが、本当に、、、本当に、、、。」
「小沢さん、無理して言わなくてもいいですよ、」
中島さんは、そういったが、彼女は
「いいえ、言わせてください!」
といった。それは僕に向けて言ったのではないかと、思われた。悲しみと怒りで体は震えて
いた。
「打ち所が悪かったせいで、息子は、歩けない体になってしまって。大学も辞退しなければ
ならず、あの子は、農薬を飲んで、自殺しました。私が、仕事が忙しいのを口実に、あの子
の苦しみを聞いてあげられなかった。だから、だから、私が殺したようなものなんです!」
小沢さんは机に突っ伏して泣いた。こんな酷い話が教育の現場で行われているとは。
「10年もたってますけど、私から、この悲しみは消えることができません。母親、失格で
す…。私は、息子の重大な秘密にも気づいてやれない…。」
10年、、、長いようで短いのかもしれない。
中島さんが三味線を弾き始めた、
分かれても、分かれても、心の奥に、、、
勿忘草を貴方に、という曲であった。
息子さんは、どんなに苦しんだだろう。また教師たちも、そんなでは失格だ。誰のための
教育か?僕も、芸大で教えてはいるけれど、学生のなかで、ここまで苦労したという者は
聞いたことがない。もしかしたら、アカンサス賞に認定した者の中にいるのかもしれない。
気がつかないだけで。
中島さんがそっと僕に話してくれた。
「小沢さんの息子さんは、今はやりの軽い発達障害だったのよ。だから、友達もできなか
ったの。それは、彼が亡くなってから、わかったの。」
やるせない思いだった。


← 前の回  次の回 → ■ 目次
Novel Collectionsトップページ