作品名:闇へ
作者:谷川 裕
← 前の回  次の回 → ■ 目次
 長野は室内に入るなり要件を切り出してきた。あくまでも<非公式>という扱いだった。胡散臭さが漂っていた。それに惹きつけられている自分がいる事に南は薄々気が付いていた。

 写真は良く売れた。山に篭り家を建てた。ログハウス。以前見た何かの雑誌でこんな家に住んでみたい。南はそう思っていた。ほとんどが自分一人で建てたようなものだった。難しい細工や人手が必要な所は下の街から職人を連れてきて頼んだ。山に変な男が篭っている。そんな噂が流れた。時間だけは十分にあった。追われる何かは無かった。職を失い時間だけが残った。

「長野さん。そこまで話して良いもんかな? もし俺が乗らなかったらどうする? 断るかもしれない。他の誰かに喋らないとも限らない」

「言ったはずです。断れない状況にあると……」

 男は静かに、そして力強く話を続けた。言葉にはどこか絶対的な拘束力のような物を受けた。背後に政府が絡んでいるからなのだろう。詳細が語られる事は無い。聞いても無駄だった。

「例えばどんな事情だ?」

「およそ考え付く全ての方法がありますが、いずれにしてももう一度檻の中に戻る事になるでしょう」

「檻か」

 南はカップをテーブルに置き軽く笑った。二年食らっていた。あの時アルコールが入っていなければもっと長かっただろう。当時の新聞にそう書かれた。酩酊状態。弁護士のその一言が刑期をわずかに短縮させていた。本当に酔っていたのか? 南はふと思い出す時があった。冷静だった。殺意はあったのか? 曖昧だった。はっきりと思い出せない。その時はあったのかもしれない。

「なあ、長野さんよ。その前に俺は免許が無い。無くしちまった。ステアリングを握る前にそこから始めなきゃなんだよ。悪いがあんたの言う通りにはならないんだよ」

 長野はテーブルに置かれたマグカップの上に一枚のカードをそっと置いた。運転免許証。どうにでもなるという事か。

「なるほど、明日俺が殺人犯になることも出来るし、死体袋に入る事もどうにでもなるというわけだな」

 南が免許を手に取った。どこから見ても本物だった。長野が冷たい目を向けてニヤリと笑った。皮の手袋をはめていた。南が飲んだカップに手を付ける。握りの部分にコートのポケットから取り出した透明のセロファンのようなフィルムを丁寧に巻きつけた。

「そう、どうにでもなる。こちらの都合で操作されている事をご理解いただきたい」



「カップは返せよな」

「もちろん、指紋だけいただければ結構です」

 南は軽く舌打ちした。カップを手に取り口を付けようとする。握りの部分が多少べた付き、鼻に近づけると木工用のボンドのような独特な匂いがした。南はカップに残った珈琲を流しに放り投げた。

「俺に見返りはあるのか?」

「街に下りて普通に生活できるようになりますよ」

「ならあまり必要な見返りじゃないな。俺はここが案外気に入っている。好きなだけ風景を撮れる。山は季節の変化が一番先にやってくる。その時間が好きでね。シャッターを切ればそれなりに金になる」

「野菜作りも上手いそうですね。下で聞きましたよ」

「ああ、高く売れる。土が街と違うらしい。料理屋の主人なんてこっちの言い値で買ってくれる」

 テーブルを挟んで南は長野と向き合っていた。掌で真新しい免許証を弄ぶ。

「何が望みです?」

「さあね」

 不貞腐れたように南は呟いた。長野は相変わらず冷たい目で南を見ていた。カップに巻きつけたフィルムは四つ折りにされ長野のコートのポケットに仕舞われた。何が望みか? 南もはっきりと言葉にする事が出来なかった。言葉では無い物。心の奥底からズンと響いてくるような何か。鳥肌が立ち、脊髄を痺れさせるような強烈な何か。それが望みなのかもしれない。

「良いでしょう、少なくともこれからの生活で困る事は無くなると思っていただいて結構です。選ぶのは南さん、あなた自身ですから」

 長野はテーブルに車のキーとメモ紙を置いた。南に背を向け後にする長野。後頭部が禿げていた。南はどこかでそんな爬虫類を見たような気がしたが、思い出す事が出来なかった。

← 前の回  次の回 → ■ 目次
Novel Collectionsトップページ