作品名:吉野彷徨(V)大乱の章
作者:ゲン ヒデ
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 二日後の二十三日(六七二年一月一日)にわかに、近江宮では、皇族らと官人らが、西殿前の広場に集められた。
 大海人の家からは、高市皇子と大津皇子が代表して来ている。
「何事でしょうか?」十歳の大津、十七歳の高市に聞く。
「さあ?」高市も分からなかった。
 帝の近親の皇族と高官たちが、殿上に呼ばれるとき、二人も西殿に上がった。

 奧の壁に仏画の織物が掲げられ、その前に、移された天智の寝床がある。
 大友皇子と重臣、僧侶らが控えている。
 左大臣・蘇我赤兄が、代表して話しだす、
「陛下におかれては、にわかに仏心を起こされ、出家なされます。で大王の御位(みくらい)は、譲位ということで、大友皇子さまがご即位となります。ご出家と立太子礼を本日行い、明後日(あさって)二十五日に大友皇子さまは、即位されます。みなさま方、この慶事を、見届けてくだされませ」
 言い終えると、集まった者たちは、ざわめく。

 やがて、静寂な雰囲気のなか、読経が混じり、高僧の手で、寝たままの天智の出家の儀式が行われ、それが終わると、大友の立太子礼が行われた。
 ところが、翌日、大蔵省の第三倉に失火があり、即位礼は二十九日に延期されて決行された。
 息子の即位を見届けて、天智はその三日後の、十二月三日(六七二年一月十日)に崩御した。

【大友皇子が即位したか、しなかったかは、後世の議論となり、明治政府は、即位を認めて、『弘文』の諡号を贈ったが、現代の学者間では、非即位説が有力らしい。
 だが筆者は、日本書紀の奇妙な記事に注目した。「天智十年十一月二十三日、大友皇子は内裏西殿の織仏像の前にて、左大臣、蘇我赤兄臣、右大臣、中臣金連蘇我果安……(中略)……大友皇子は手に香炉を執り……」のあと、仏式で大友皇子を盛り立てる誓いを、重臣らがするのだが、これは、出家という形での、天智の譲位の光景の一部ではなかろうか。
 伏せたままの天智の出家が執り行われ、すぐに大友が即位したのを、日本書紀の編集者が記述する際、検閲役・舎人親王の手前、皇位簒奪にふれないよう、精細な記載をしなかったとしたら、この奇妙な焼香も、納得できる。
 もともと、即位礼は、皇祖を祀る神所で、天皇が即位を報告したり、大臣らが盾や槍で守護するしぐさや、祝詞(のりと)を述べたりする簡素な手順の儀式である。が、先帝の殯(もがり)が続く間は、即位礼はできない。で天智は、出家という譲位を使ったのである。その事を天武帝の子孫は、隠した。……で、以後の大友皇子は、天皇として描かれます】 
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