作品名:転生関ヶ原
作者:ゲン ヒデ
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 太閤秀吉が逝去したのは、慶長三年(一五九八)八月十八日(新暦の九月十八日)である。
 その数ヶ月後、秀吉の遺命により、幼君秀頼が大阪城に移り、前田利家が守役となる。  
五大老の筆頭・徳川家康は、伏見城で政務を担当した。が、次期の天下取りを心に秘めた家康は、諸侯の反応を見ようと、専横を見せ始めると、反発が起こり、しばらくは慎んだ。
 ところが、翌年、反発の筆頭者・前田利家の死去に伴い、豊臣家内の反目を利用し、石田三成を国元に蟄居させ、思いのまま専横を再開し始める。まず、大阪城で執政をしようと、秀頼への重陽の節句(九月九日)の祝いの名目で、伏見城より移って来た。
 すぐさま、大阪城の西の丸の御殿に住んでいた秀吉の正妻・おね、を訪れ、挨拶をする。対面の書院での型どおりの挨拶を終えると、落飾して高台院と名乗った尼僧姿の女性は、茶室に誘うた。

茶を啜り終えた家康に、高台院が、
「内府殿、宿舎は何処に?」
「とりあえず、石田治部の兄の屋敷に泊まっておりますが……」
「五大老筆頭の内府殿の住まいには、ふさわしくありませんねえ……、そうそう、殿下の遺言の阿弥陀峰のお社の建立のため、わたしは京に移りますから、ここにお住まいください。一月以内に出ますから」
「何も、そう急がなくとも」家康は、内心喜んだが、止める振りをした。

「いえねえ、わたしは、茶々殿と一緒に、このお城に住むのが、辛いのですよ」
 北の政所は、ため息をついた。で、家康が、心配そうな顔を見せると、
「世情では、いがみ合ってる噂が立ってますけど、そうではありませんよ。捨松を死なせたことに、まだ茶々がこだわっていましてねえ……、お拾(秀頼)の側に寄ろうとすると、抱えて逃げてしまうのですよ。まるでお拾に取り付く悪霊のように思われていますの。だから、この城から離れたいのですよ」
 淀殿の産んだ長男を、無理矢理取り上げ、自分が育てようとしたら、僅か二歳で亡くなったのである。そのことで、淀殿が、北の政所を頼りにしなくなり、豊臣家の滅亡につながっていくのである。
(もしも、捨松が生きていたら、この女人は、自分の天下取りに立ちはだかる強敵になっていたかも知れぬか……、だが、まだ油断はできぬ。懐柔の手を緩めててはならぬなあ)家康は用心深く思った。

 秀吉の糟糠の妻は、律義を通した経歴の家康が、豊臣の天下を奪う心を持っているまい、とたかをくくっていた。豊臣の天下の揺らぎを、押さえ込んでいる風に振る舞う家康を、信じ込んでいたのである。

(後世の小説家は、家康の天下盗りに、高台院(北の政所)が、子飼いの武将を協力させた風に描いているが、実際は、豊臣の天下の安泰のための活動だと、巧妙に演技する家康に、高台院は騙されたのである)
         

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