作品名:吉野彷徨(U)若き妃の章
作者:ゲン ヒデ
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那大津(博多)の本営は、磐瀬行宮(いわせのかりみや)と呼ばれているが、博多駅から南、四キロの南区三宅の地であろう、と史家は比定しているとか……。
 
 草壁皇子を抱えて待っていた誌斐を連れ、本営から出た讃良は、北東の丘へ上がった。幼児のための散策の日課である。先ほどの本営でのことは、気にしてない。
 林の間の空き地で、よちよち歩きの皇子の相手をしていると、誌斐が、上がってくる武将を見つけ、
「姫さま、越の太守さまが……」

 越の国(現在の北陸四県)の国司・安倍比羅夫は、蝦夷遠征での汐焼けの赤銅の顔と、黒いあご髭が妙に調和した、小太りの中年である。
「姫さま、ここにおられましたか。ははは」
 日ごろは、挨拶程度で、ぶすっとしている男の、にわかな笑みに、讃良は笑いを覚える。
 誌斐は気を利かせ、離れたところで皇子の相手をする。
 
 木陰の石に座り、二人は北の海を見る。博多湾の入り江に、朱色の住吉神社の社がぽつんと目立ち、湾では、古代船から最新の遣唐使船風の船までの雑多な船舶が、ひしめいている。
 比羅夫は海の向こうを指さし、
「今日、姫さまが述べられた策、この比羅夫、感服しました。その策をすれば、おそらく、唐の軍団の船は、対馬の沖を通り金城に向かう。そこを我が軍船が攻めれば勝てると、陛下に申しましたが、けんもほろろで……」

(この堅固な城は落とせまい)といい、天智は一枚の図を見せた。改修された金城の図であった。

「それが、妙なのです。建物は違いますが、姫が描かれた城の土台の石垣や濠に、よく似ています。それに、わたしめが放った細人(しのび)の報告では、大規模な工事を新羅はしておりませぬ。この図は、信頼出来る、草忍らからの知らせだと、陛下は言い切られたが……」
 (数年前からの執得の知らせで、新羅にいる間諜はすべて捕まり、逆間諜《二重スパイ》にされていたのである)

「おかしいと申しましたが、……陛下は、未だに、わたしめに不信感をお持ちですなあ」比羅夫は、ため息をついた。
 讃良は、うすうす、その事情を分かっていた。生母が一族である有間皇子の後見人を、比羅夫はしていた。
 大阪城の図は、有間から聞きだし、斉明帝に見せてもらったのである。
 
 蝦夷遠征の命じられ、飛鳥から離れているときに、有間皇子は謀殺された。蝦夷遠征をはげんだのは、中大兄(天智)への忠誠心を示すためでもあった。
が、猜疑心の強い天智は、比羅夫にどこか冷たかった。
 
 海を眺めていた、讃良に顔を向け、
「ときに、姫さま、あなたさまは、未来に転生した入鹿さまから、啓示を受けるとか」生前の有間から聞かされたことを、たずねた。
「啓示ではないわねえ。あの方の記憶の断片が、少し漏れるのかなあ。だけどこのごろは全くないの」
「啓示で、あの策を言われたと思いましたが、左様ですか」比羅夫は、期待とちがったので拍子抜けした。
「太守、啓示ではないけど、わたしは、百済では、敗ける気がするの」
「姫さまも、そう思われますか」
「太守、負け戦になっても、敵に食い下がらず、軍を撤退させて。それから、逃げる百済の人たちを救って上げて」
「心に留めておきましょう」といい、近づく幼児に目を落とす。

 よちよち歩きの草壁に、讃良が、手を差しだし抱き上げ、頬ずりする。それを見、比羅夫、
「思い出しますなあ、有間皇子(ありまのみこ)の幼い頃を……」
 しばしの物思いをし、
「皇子(みこ・有間)は、あなたさまを妃に迎えられると、久しぶりに笑顔を見せられましたが、あれが最後にお会いした……」比羅夫は髭を震わせ、嗚咽する。
「太守、……」どう声をかけていいのか、讃良は迷う。
 幼児は、不思議そうに、つぶらな目を比羅夫に向けていた。

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