作品名:吉野彷徨(W)大后の章
作者:ゲン ヒデ
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 大后は、霧にかかった視界が徐々に晴れ、不思議な場所にいるのに驚いた。
 体が金縛りにあったようで、声も出ない。右手に柿の葉で巻いた飯を持っているが、先ほど老婆から貰った物とは違うほど鮮やかであり、台の上に瑠璃杯(ガラスコップ)やら、見たこともない薄い厚さの食器やらが置かれている。
 向こうから声がした。ゆっくりだが、首が上に動く。そこには、行者がいた。
「あなた、柿の葉寿司は、葉は食べないのですよ。初めて食べる人は、よく間違えますなあ」
 行者は笑い、横の、奇妙な服装と髪の男に言う、
「さきほどのお話ですけども、すこし間違いがありますよ。吉野の宮の奈良時代以前のは、滝宮遺跡といって、吉野川の上流、ここから東の山並みを越えた向こうの所にありまして、後醍醐天皇の行宮とは違うんですよ」
「それは知らなかった。じゃあ壬申の乱の時、天武天皇はそこで乱を起こしたんですね」
 大后は、その男の服装が、少女のころ出会った、入鹿の転生した若者の服装に、似ているのに気づく。
「乱を起こしたと言うより、持統天皇らを連れ、東国への逃避行を始めたと言うのが、正しいんじゃないかな。……味方が馳せ参じ、最終的には勝利したということでしょうな」

「あのー……」大后は声が出せるようになったが、自分の声と違い男の声だと気づくが、続ける、
「天武天皇とは、大海人皇子(おおあまのみこ)のことで?」
「ああそうですよ」行者は軽く答えた。
「で、持統天皇とは、ひょっとしたら鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)のことで?」
 行者は、きょとんとした表情をし、
「変な方だなあ、歴史に詳しいのに、とぼけて、そんな質問をして」笑う。
「では、持統とはわたし……讃良のこと、やはり!……ではここは?」

 前の男が言う。
「倉さん、何を呟いているんですか。手に寿司を持ったままですよ」
(倉さん?……ああ倉蔵!……では、ここは、未来の入鹿さまの世界!)
 手がかってに動き、口に運ぶ。意識しないのに、口は寿司をかじる。が、味は感じられない。向かいの行者は笑い、何やら飲み物(コーヒー)を飲んだ。

 そして、独り言のように言う、
「せっかく壬申の乱で天下を取ったけど、天武系は途絶えて、天智系に戻ったから、諸行無常か」
「天智て、まさか大友皇子(おおとものみこ)!」持統は声を荒げた。
「あなた、何を言っているんですか、天智天皇は、その皇子の父親、中大兄皇子でしょう。……称徳女帝が、天武系の有力な皇位候補らを殺したので、高齢で立てられた光仁天皇は、えーと、天智天皇のどの皇子の子だったか?」行者は(志貴皇子)の名を忘れていた。
(高齢で……、すると七、八十年後くらいか? ああ!)大后は、深いため息をついた。

 行者が続けて話す。
「まあ何ですなあ、持統天皇が自分の子孫に皇位が続くように頑張ったけれど、孫の文  武天皇は若死にし、聖武天皇は、まあまあの寿命で、その娘・称徳女帝で途絶えたけど……」
(孫の文武天皇?、軽《皇子》のことか! 若死に!まさか!)大后は驚愕した。
「わたしが思うに、原因があるんじゃないかなあ」
「原因とは?!」大后は、思わず聞き返した。

「近親婚の障害じゃないかなあ。病気になると、薬が無くても、体が自然に治ろうとするでしょう。近親婚をすれば、同じ遺伝子が重複し、多様な病への対応、自然治癒力が、落ちるじゃないかなあ。文武天皇は、甥と叔母の間に生まれていますよねえ。詳しくは調べてないんですが、近親婚で生まれた天皇は、長生きしていない感じがしますね」
 と言い終え、また、コーヒを口にした。
 
 大后は、父・天智が、叔父と姪の間の子、病弱だった祖父・舒明天皇の両親・押坂大兄と糠手皇女が、異母兄妹だったことに気づいた。
(近親婚……ああ……身内大事で妹・阿閇を草壁の后にしたのは、間違いだったのか)後悔が大后を襲った。
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