作品名:ここで終わる話
作者:京魚
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 俺にシェイという名をつけた両親は、小さい頃口を揃えて言っていた。
 「上に行く者としての常識は、この街にはない」
 だから七歳になってすぐに首都に放り出された。
 もちろん所持金はゼロ。唯一持たされたのは軍への志願書と、金具が外れかけのブラックパールのピアスだけだった。
 首都のだだっ広い道を歩き回り、願書受付所を探した。日も暮れぐれに、空腹のまま手続きを終えそのまま宿舎に案内された。二人部屋が全て埋まっていたため、一人で部屋を使った。そういえばそのことでよくいじめにあった。
 夕食の時間は過ぎていたが、気を利かせた案内の一般兵がわざわざ部屋に戻ってパンをくれた。固くてなかなか飲み込めない。
 涙を流しながら食べたせいか、塩加減に不満はなかった。
 『上に行く者としての常識は、この街にはない』
 その言葉を信じ、一心不乱に訓練に取り組んだ。すがるようにその言葉を何度もつぶやき、入ってすぐにガビョウで開けた左耳に重くのしかかるブラックパールをちぎれる程掴む。
 しかし、
 『上に行く者としての常識は、この場所にもない』
 どうすればいい。
 小さい心が考えるのはひとつしかない。純粋で汚れようのない心が墨のように色を埋没する寸前、幼い思いはただ一つの考えを貫き通す。

 上にいくしかない。

 常識って何だ。それは必要なのか。上を目指す理由は何だ。ここでくすぶっていたって生きて行ける。何も考えずに訓練を重ね、ただ一歩兵として死んで行けばいいんだ。
 なぜ俺は上を目指す。
 なぜ俺は上を求める。
 自分の胸に聞いてみれば、俺のなかの赤い固まりは、帰りたいからだと答えた。










 「これ、今日中にやるんですか?」
 「当たり前だろ」
 目の前の書類の山を、タンラートは呆然と見上げた。
 現在午前8時。
 自主訓練期間を使って今日からロブの手伝いにタンラートはやって来た。
 頼まれた着替えと朝食を持って来たタンラートが見たのは、ベッドにかけて食事などをする机と、それには乗り切らずシーツを埋めるように散乱された書類の山だった。
 「これってこの間のカンソールの」
 「そうだ」
 「前にも思っていましたけど、一つ部隊動かすのにこれだけの後始末が必要なんですね」
 「まあな。コライドの奴、ほとんど俺に押し付けたな」
 ため息をつきながらも、書類を追う目は決して休めない。
 次第に目つきが真剣になり何を話しかけても答えなくなった。むさぼるように文字を追い、頭に叩き込んで行く。彼の没頭ぶりには彼自身の生み出す世界だけではなく、周りをも巻き込んでしまう。
 こうなれば自然に彼自身の集中が途切れるまで待つしかない。
 タンラートはその要因の一つにならないように、そっと音を立てずに着替えをクローゼットに仕舞い、朝食のサンドイッチにナプキンをかけた。そして静かに椅子に腰掛け、彼が読み終わり乱雑に積み上げられた書類をまとめていく。
 前回も同様のことがあった。というより、タンラートがロブに関して手伝える仕事など、この程度のものしかない。
 しかしタンラートはこの時間が一番好きだった。紙がめくられる音や秒針が進む音。それを盛り上げるように張りつめた緊張感が実に快い。
 ここはタンラートのもう一つの、いや、たった一つの居場所だった。

 「ふう」
 あれから約4時間が経った。ちょうど半分程度終わらせて集中が切れたロブは、ようやく頭を上げ壁にかけてある年代物の時計を見た。すっかり時間が過ぎていて、いつものことながら驚いた。
 「おつかれさまです」
 「ああ」
 今読み終わった書類をロブの手から抜き取ると、机の上の書類を全て取り払い、昼食をおいた。
 野菜中心のあまり好かれない病院食だ。
 少し食器をにらんでから、面倒臭そうに欠伸をする。
 「食べないと力が出ませんよ」
 無言で制するタンラートは、このときばかりは主導権を握れることを知っていた。








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