作品名:吉野彷徨(U)若き妃の章
作者:ゲン ヒデ
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 時代は飛んで、昭和六十三年(一九八八)、伊勢神宮の遷宮の取材を終えたばかりの、放送局のマイクロバスが、外宮の前を過ぎた。
 チーフが、カメラマンに声を掛ける。
「この高感度の映像なら、大丈夫だな」
 闇黒の中で、神官たちが神宝の櫃を、駕籠かきの様に運ぶ光景が、モニターに映る。
 カメラマン・倉造は当然だと言わんばかりの表情を見せる。あの蘇我入鹿の転生した男である。高松塚古墳取材飛行から十六年経過して、局では中堅の技術者と重んじられている。
 突然、チーフが叫ぶ、
「ああ!又だ、 腹が痛みだした!……どこか近くに便所はないか!」
この男、神経質で、常習性下痢症の持病があった。他のスタッフ、地図をみて、
「この先の、斎宮の宮跡公園に公衆便所があればいいんですが」
「何でもいい、そこへ止めてくれ。なければ、近くの家に駈け込もう」
 
すぐに、公園に着く。さいわいにも公衆便所を見つけ、チーフは飛んでいく。
 スタッフらと車を降り、倉造はその辺を散策する。手には、ベーターカムを抱えていた。取材用ビデオカメラを持ちだしたのは、職業の習性からである。
 公園に建てられている歌碑に近づき、ベーターカムを回す。
 撮り終え、歌碑の和歌を読む。
 (わが背子を 大和へ遣ると さ夜深けて 暁露に わが立ち濡れし)
 (うつしみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を 弟とか見む)
 大来(大伯)皇女の弟を思いやる歌と、知る。

 マイクロバスに戻ろうとして、妙な気配を感じて、途中立ち止まる。
 周囲は、何事もない。ふと、考える。
(大来皇女の弟は、何という名だったけ?)
 中学時代に学んだ名を思い出そうとする。すぐに記憶の底から、出てきた。
(ああ、持統天皇に殺されたのは、大津皇子《おおつのみこ》、大津皇子か)
 頭の奧で、何か接触した感覚を覚えるが、スタッフの急く声に、慌てて駈けていった。
   
 その千三百数十年前の朝、宿舎から出て井戸の前で、水を汲もうかとしている讃良は、近づく人の気配を感じた。が誰もいない。首を傾げるが、つるべに手を掛けていると、頭の中で、あの入鹿の声がする。
(ああ!持統天皇に殺されたのは、大津皇子《おおつのみこ》大津皇子か)
 くらくらっと、めまいを感じる。すぐ普通に戻るが、讃良は考え込む。
(入鹿さまの知らせは、どういう意味?……持統天皇? 大津皇子?……)
 結論は、
(とにかく大津皇子は悲運な名らしい)
 
 井戸の底に、 汲み桶が当たっていることに気づき、水を汲み上げだしながら、(大津皇子とは不吉な名、大津皇子とは不吉な名、……)呪文のように唱え続けた。
 
 持統とは自分だと気づくのは、姉・太田皇女の息子・大津皇子を死に追いやる二十五年後のこととなる。

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