作品名:吉野彷徨(W)大后の章
作者:ゲン ヒデ
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 役行者は、じっと考え込んだ。そして話し出す、
「不思議なお話ですなあ。あの行幸のとき、わたしめは、修行中に見た幻で、『小角(おづぬ)どの、今、吉野宮へ陛下の孫娘が来るが、病で亡くなるおそれがあるので、何か風邪を防ぐ食い物を与えてくれぬか』と、神か仏か分からぬ、おぼろげなお方が立ちまして、それから『これ以上、歴史が狂うと、わたしの手に負えなくなるから、頼む』と手を合わせられました」
「確か、葛は風邪の薬の成分、ああ、それでか……。となると、有間皇子の死をきき、わたしは病に倒れ、亡くなっていたかもしれぬ、ということだったのか」
「葛餅を食べるという、ささいなことが、天の意に沿う歴史になったかもしれませんなあ。ですから、あれは風邪を防ぐための物のはず。そのような不思議な事が起こる効果は、ありません。おそらく、最初にお食べになった山葡萄と、入鹿さまの転生した御仁の下された乳味の果汁とが、陛下のお体の中で感応しあい、そのような不思議が起こったのでは。二度目のときは、壬申の乱の直前ですな。その時、何を食しましたか」
「確か、村人から醍醐(コンデンスミルク)をもらい、伏せっていた大伯(皇女)に与えた後、残り数滴を飲んだが」
「それも、その不思議をおこしたのでしょう」
「念のため、今まで、何度も山葡萄と醍醐で試みたが、だめであった」
「一度だけ、ということでしょうなあ」

「わたしは、歴史の道具に過ぎなかったのか」大后は嘆息した。
「いえ、よい方向に歴史を切り開かれたのです。それが天の意に合ったということでしょう」にこやかに役行者は言った。
「今日の修行では、まず陛下の啓示のご希望を祈祷しましょう。では、」と言い、役行者は立ち上がり、蔵王堂へ赴いた。
           
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