作品名:海邪履水魚
作者:上山環三
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更衣室での格闘のあった日から二日後、舞は体育教師の川口に呼び出されて体育教官室へと足を運んだ。
何の用なの・・・・?
舞には心当たり全くない。それは急な呼び出しだった。
教官室は校舎とグラウンドの境目にある。砂を噛んでガリガリと音をたてる教官室のドアを開け、部屋の中へ入る。中はクーラーが効き、さすがに居心地はよい。
「失礼します――」
中には川口が一人。安そうな応接セットのソファーに座っている。他の教師は見当たらなかったが、舞は川口に向かって声を掛ける。
「川口先生‥‥」
目配せをされているのに気が付いて、舞は靴を脱いで川口の前に進み出る。
「そこ座って」
「はい・・・・失礼します」
スカートの中が見えないよう気を付けながらソファーに腰を下ろすと、川口はすぐに口を開いた。
「剣野、いきなり本題に入るけどな」
「ハイ」
「水泳の成績の事だが――」
と、来た。――今更何を言い出すのかと、舞は口を開く。
「あの、それは先生も――」
「お前の事情の事は先生も分かっているつもりだ」
彼女の言葉を遮る川口。突き放すように言って、彼は目を瞑ると一人で小さく頷いた。
「・・・・」
「しかしだなぁ、剣野」
そう言われて――、ようやく舞は『何か』がおかしい事に気が付いた。
「小さい頃に溺れたからとか言って、いつまでもそんな事で水泳の授業をサボっているわけにもいかないだろう?」
まさか、『本当』の事を話すわけにもいかず、小さい頃に海で溺れた所為で泳げなくなった云々、と言う理由を叔母が手紙に書いてくれたのである。
いや、今はそんな事はどうでもいい。――『サボっている』と言う言葉にも多いに反論したい所ではあったが、舞はそれをグッと堪えて川口を見据えた。その川口は、いつものさばけた口調とはまるで正反対のねちっこい口調で続ける。
「えぇ? どうなんだ、剣野」
そもそも、どうして教官室には川口しかいないのだろう。その彼は何かに取り憑かれたような目をしている。そうして、舞は思い切った行動に出る。
「先生・・・・!」
川口をキッと睨み付ける。「すいません!」
そう言うや否や、舞はソファーから立ち上がると右手の掌を川口の額にピタリと当てる。彼の体から、得体の知れない妖気が僅かに漏れ出しているのに彼女はやっと気付いたのだ。
何者かの悪意に彼は操られている。――それを追い払う!
舞は川口に破魔の念を込めようとした。――だが。
え? な、に・・・・!?
突然の目眩が彼女を襲った。全身から力が抜け、崩れ落ちそうになる。一瞬それに耐えたが、しかし舞はソファーにうずくまってしまう。
「こ、これはっ‥‥!?」
力が、出ない・・・・!
理由はすでに分かっている。――この全身に重くのしかかるようなプレッシャーは結界。しかも封魔の術式だ。
「大丈夫か? 剣野・・・・」
無機質な川口の声が耳に届く。言葉とは裏腹に、全く心配している様子はない。むしろ、その口調からは楽しんでいるようにも聞こえた。
「・・・・うぅ・・・・」
「どうした? 立てよ」
額にあった舞の右手を川口はギュッと掴み、そのまま彼女を引っ張り上げる。
「あうぅっ――」
「意外に軽いな・・・・」
目を細めてそう呟くと、川口は
「剣野、さっきまでの勢いはどこへ行ったんだ?」
と、ぐったりとしている彼女に話し掛ける。
――その時だ。
「川口先生! 何をやってるんですかっ・・・・!」
二人しかいない教官室に、かん高い女性の声が響き渡る。乱入者に驚いた川口が掴んでいた舞の右腕を離したので、彼女はそのまま床に崩れ落ちた。
「ちょっとあなた――!」
そう言いながら沢村 温子が部屋の中へ入ってくる。それまでの歪んだ空気を圧倒するかのような口調と動作に、川口がたじろぐ。
沢村は狼狽えるかのような川口に詰め寄った。
「先生、今言一体何をされてたんですか・・・・?」
がしかし、肝心の川口はその剣幕に対応しきれずもごもごと口籠もる。
「川口先生・・・・!」
「ぼ・・・・僕は・・・・」
ソファーにしゃがみ込んで呻く――。
沢村はそんな川口を一瞥すると、すぐに舞の側にしゃがみ込んで手を差し伸べる。「剣野さん、大丈夫・・・・?」
――痛みは消えていた。ゆっくりと頭を振る舞。沢村に支えられて何とか立ち上がる。
「す、すいません‥‥」
一体、今のプレッシャーは何だったのか。まだ朦朧とする頭で、舞は考える。
その時、二人は川口を全く見ていなかった。――呆ける彼の口から何やら緑の液体が溢れ出て、ボトリと床に落ちると、そのまま蒸発してしまったのである。
舞も沢村もその事に全く気がつかない・・・・。
「・・・・沢村先生、もう大丈夫です‥‥」
「そう・・・・?」
沢村は舞の顔色を覗う。「気分が悪いようだったら、ここで休んでいってもいいわよ」
出来ればそうしたかったが、今はこの場から早く立ち去りたいと言う想いの方が強かった。
「いえ、大丈夫です・・・・」
何とかそう言って舞は川口の様子を探る。先程まで感じていた妖気は、いつの間にやら消え去っていた。
「あの、もういいですか‥‥?」
「え? あぁ――」
舞の問い掛けに目を瞬たいて川口が応える。彼も何がどうなっているのか分かっていないようである。
――川口先生を使って妨害してきた!? そう思い至って舞は戦慄する。
そんな舞の様子を見て沢村は
「本当に大丈夫なの・・・・?」
と、ソファーにしゃがみ込んだままの川口の代わりに心配そうに言った‥‥。
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