作品名:吉野彷徨(W)大后の章
作者:ゲン ヒデ
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 六八九年の正月、吉野宮で、皇后は、あの紙切れを開いて、考えていた。
(今年中には、草壁は即位させよう。三年も待ったか、やれやれ……だが、変ねえ、大津を殺したことになる、この持統帝とは?)
 まもなく、その疑問が分かる。あっけなく、草壁が亡くなったのである。弟夫婦の死による心痛を忘れるためか、異常に父への殯へ出かけ、体調を崩したあげくの死去である。

 草壁の殯のとき、不比等が誄(しのびごと)を捧げたいと言うので、讃良は許した。
 殯宮での、嗚咽混じりの、不比等の渾身の長歌は、

 ♪天地(あめつち)の 初めの時の ひさかたの 天(あま)の河原に 八百万(やほよろづ) 千万神(ちよろづがみ)の 神集(かむつど)ひ 集ひいまして 神分(かむはか)り はかりし時に 天照らす 日女(ひるめ)の命(みこと) 天(あめ)をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂(みづほ)の国を 天地(あめつち)の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命(みこと)と 天雲の 八重かきわけて 神下(かむくだ)し いませまつりし 高照らす 日の皇子は 飛鳥の 清御(きよみ)の宮に 神ながら 太敷きまして 天皇(すめろき)の 敷きます国と 天の原 石門(いはと)を開き 神上(かむあが)り 上りいましぬ 我が大君 皇子の命(みこと)の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴くあらむと 望月の 満(たた)はしけむと 天の下 四方の人の 大船の 思ひ頼みて 天(あま)つ水 仰(あふ)ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓(まゆみ)の岡に 宮柱 太敷きいまし 御殿(みあらか)を 高知りまして 朝言(あさこと)に 御言(みこと)問はさず 日月(ひつき)の 数多(まね)くなりぬる そこ故に 皇子(みこ)の宮人(みやびと) ゆくへ知らずも♪
 そして、まとめの短歌二首
 ♪ひさかたの天(あめ)見るごとく仰(あふ)ぎ見し皇子の御門(みかど)の荒れまく惜しも♪
 ♪あかねさす日は照らせれどぬば玉の夜渡る月の隠らく惜しも ♪
 その場の者はみな、挽歌作りでそんな才能が有ったかと驚いた。そして、皇族らが亡くなると、不比等は、持統帝や、遺族から誄(しのびごと)を請われたが 、まさか天才歌人とは思われなかったのである。 
 
 殯で、不比等の挽歌を、嘆きながら聞いていた讃良は、ふと、持統とは自分だと気づく。そして、孫・軽の即位までの中継ぎの天皇になる決意をした。
  念のため、吉野へ行幸をして、天の啓示を待ったが、何も不思議は起こらなかった。

 持統天皇が即位のは 持統四年(六九〇)であるが、吉野への行幸の後、すぐさま、太政大臣に高市皇子を任命した。天の啓示はなく、思いつきである。大后(これから彼女の称号をこう記します)は、毎年、吉野へ行幸するが、多いときは年に五回、少ない年でも、二回は行幸した。それは、あの天の啓示を得るためであった。が、思いこみの勘違いだけであり、あの不思議は、二度と起こらなかったのである。

 意市を太政大臣にすると話したら、高市が即位するおそれを、軽皇子の母・阿閉が訴える。すると大后は、
「彼は即位できなくて、六年後亡くなるわ、御名部(高市の妃で、阿閉の実姉)には内緒よ」と確信を持って、言った。
 
 六年後、それが的中して、阿閉は驚くが、大后自身も驚いた。
 高市の死去により、後継者問題での皇族会議では、大后の意を酌んだ、葛野皇子(大友の子)の発言で、草壁の子・軽皇子が皇太子に決まったのである。
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