作品名:雪尋の短編小説
作者:雪尋
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「ここはドコ? あなたは誰ですか?」
病院で目が覚めた。自分が記憶喪失だと気がつくのに、三日かかった。
「浩樹さん! 目を覚ましたのね! もう、心配したんだから!」
「浩樹、大丈夫かい? 母さんが分かる? ほら、昔のアルバム持ってきたよ……」
「記憶喪失ってマジか。僕のこと分かるか?まいったな。君に三万貸してたんだけど」
「よー記憶喪失! このドラマティック野郎め。俺の名前を言ってみろ!」
色々な人間が僕のお見舞いにやってきた。その中でも母と彼女は毎日来てくれた。
でも最初の一週間は誰が誰かも分からず、僕はひたすらに狼狽したり混乱したり、逆に達観したりもした。
しかしある時、僕の恋人(らしい)が持ってきてくれた本を見た瞬間、僕の頭の中で累積された情報によるビッグバンとケミストリーが同時に引き起こされた。
「懐かしいなぁ……これ、僕が子供のころ好きだった絵本じゃん」
ぽつり、と呟いた瞬間。
部屋にいた母親と彼女はそろって息をつまらせ、そして泣いた。
「思い出したの!? これ、分かる? 見覚えがある?」
「うん。こんなもんよく取ってたねかーちゃん。……ああ、なんで俺、さっきまでかーちゃんの事を“母さん”なんて呼んでたんだろう。うっわ、我ながら気色悪い」
そこからは順調だった。
僕は一つずつ、まるで階段を上るようにゆっくりと記憶を取り戻していった。
幼い頃の思い出、過去の体験、家族のこと、古い友人の名前、漫画の内容。
最初ははしゃぎながら思い出した内容を語っていた。
……だが、そのうち僕は「これ以上は何も思い出せない」という演技をするようになった。記憶が四割がた戻った頃からだ。
「ねぇ、まだわたしのこと思い出せない……?」
僕は愛しい彼女に関する記憶だけ、まったく思い出せなかったのだ。
僕はこの人が好きだし、この人も僕のことが好きだろう。でも思い出せない。だから僕は「記憶が戻らない」ふりをし続けた。
何かを思い出してそれを口にすると、彼女は決まって嬉しそうな顔をする。そして「私のことも思い出してくれた?」って顔をするのだ。戻らない彼女との思い出。彼女の落胆ぶりは手に取るように分かった。だから僕は彼女のことを思い出すまで、他の記憶を語ることを止めた。
退院するころには、ほぼ全ての記憶を僕は取り戻していた。ちょっと忘れてる部分もあるようだけど、それに関する話題が出れば連鎖的思い出せる。だけど、彼女の事だけは思い出せなかった。
だから周囲は僕のことを「事故で記憶の半分以上がスッ飛んだ可哀相な男」と呼んだ。僕はみんなに嘘をつき続けたのだ。彼女のことが、好きだったから。
他の記憶は揃ってるのに、どうして彼女のことだけ思い出せない?
それを不思議に思った僕は、久しぶりに帰った自室で日記の存在を思い出した。
たまにつけてた雑文集だ。
念入りに隠してあった日記を取り出す。これを見れば何か思い出すだろう。そう思いページを開くと、ちょっと驚くべきことが書いてあった。
『またストーカーが無言電話をかけてきた。怖い。一体誰なんだ? 僕が何をした?』
記憶が無くて当然だった。そんなもの、最初からありはしなかったのだ。
戦慄走ると同時に、僕の携帯がブルブルと震える。彼女からのメールだ。
『いまどこに居るの? 何をしているの?』
錯乱した僕は部屋の中だったにも関わらず日記帳に火をつけて、それを灰にした。
次に目指すは大通り。
前回と同じような車に、同じようなぶつかりかたをすればいいはずだ。
もう一度記憶を失ってしまえば、きっと僕らは幸せになれるだろう。
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