作品名:平安遥か(T)万葉の人々
作者:ゲン ヒデ
← 前の回  ■ 目次
           万葉集後日談
家持の和歌を筆者は,引用したいが出来ない。実は20巻以降の家持が編集したはずの、27巻まではあろう、と作者は考えている巻物が、現代に伝わっていないのである。 それどころか、この万葉集が消滅する危機があったのである。
 その原因の人物がなんと、愉しげに家持と旅をした山部、桓武天皇本人である。

 ことの始まりは、21年後、桓武帝48歳の時、家持が亡くなってまもなく、桓武の寵臣、藤原種継が、長岡京建設現場で矢で射殺されことから、始まった。
 犯人はすぐ捕まったが、おそらく工事遅延への叱責と降格命令に、担当者が怒って暗殺した事件なのに、共犯者が仕立てられるえん罪事件に広がった。
 まずいことにその犯人は大伴家の一族の者であった。
 犯人は、責任を亡き家持に押し付け、遷都妨害の陰謀事件と白状する。 
 死人に口なしで、家持が首謀者にされ、仕えた皇太子、早良親王以下の関係者が処刑、流刑などに処せられた。
 で亡くなっている家持には埋葬禁止、官位剥奪、子の永主の流刑の他に、桓武帝から、残酷な命令が出された。
「たしか、家持の家に代々伝える歌集があるはずだ。それを見つけ出して、全て焼き捨てよ」
で、万葉集は、この世から消え失せたかに見えた。

7年後から、桓武帝の周辺で母、新笠、皇后、乙牟漏の死、皇太子の病など不吉なことが起こり、疫病まで重なった。
 陰陽師が早良東宮の祟りだと報告しても、合理主義者だったのか、迷信を言うな、と陰陽師まで流罪に処しようと、桓武帝怒る。
 陰陽師が震え上がっていると、1人の臣下が進み出る。
 和気清麻呂である。20年程前、宇佐八幡神の神託で道鏡の皇位へ野望をうち砕いた人物である。謹言実直な老人は言う。
「陛下、卜定は天の啓示であるかもしれませぬ。諸処の事例をご考察なされて、冷静なるご判断をなされては」
「清麻呂か、神託を得た経験のお前の意見には従わねばならんなあ。はて」
 御座に座り、考え込む帝、やがて言う
「そういえば、南都(奈良京)へ戻った時、不思議なことが起こった。夜、寝ようとすると、小鬼らが周囲を走り廻ったり、魑魅魍魎らしい物の気が都中を徘徊している気配があった」
わざとらしく怯えて見せ、清麻呂に次のように命じた。
「奈良の都は、井上皇后、他戸東宮、早良、他にも、非業の死を遂げた者の怨霊の住処になっておるはず。この長岡の都も川の洪水で立ちゆかぬ。もっと北の盆地、山城国葛野郡の辺りが、都にふさわしい神聖地かどうか、清麻呂よ、お前の心眼で見定めて参れ」
 しばらくしてあの盆地は四神相応の都に最適な地勢、との報告を和気清麻呂から聞き、更なる遷都に取りかかったのである。
 怨霊を口実にして、和気清麻呂の言のお墨付きを得て、更なる遷都の強行を、桓武帝は行った
 遷都の本当の理由は、桓武と侍医、智麻呂(次章以降に登場する)の二人だけの秘密であった。
 形ばかりは弟、早良や義母、井上皇后等の鎮魂の儀礼を行ったが、流刑にあった者達は、まだ許されなかった。
 
 800年(延暦19年)1月、62歳の桓武帝は姪、五百井(いおい)女王の庄へ行幸した。
 姪が、拝領地から戻らず、正月から休んでいるのを心配したのである。
 父、光仁(白壁王)帝の御代に姉、能登内親王は既に他界し、不憫な姪を可愛いがっていたのである。
 といっても彼女はもう41歳で、婿も取らず女官として励んでいたのだが。(帝の異母妹で、妃の酒人内親王に仕える責任者か?)
 
 新居の寝所で伏せる姪は、
「この新しい屋敷に引っ越しする際、持ってきた物を整理していたら、このような物を見付けました」寝床の横を示す。
 薄い木の板(木簡)である。
「それは、わが家へよく訪れられた大伴永主様が、私と弟が喧嘩していた時、諭されて書かれた和歌です。今これを読みかえすと、流刑の身の弟のことが案じられて」と嘆く。
 
 甥、五百枝王は早良東宮に仕えた職籍ゆえに、帝の近親といえども処罰されるという、見せしめにあったのである。
 帝、木簡を拾い、老眼なので離して読む。考え込む。
 何度も読み返す。やがて、嗚咽しだす。
 随身の若者、藤原緒嗣が木簡を帝から受け取り、読む。

……………………… ………………………………………………………………………………【大津皇子、密かに伊勢の神宮(かむみや)に下りて、上り来る時に、大伯皇女(おほくのひめみこ)の作らす歌二首
『我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁(あかとき)露に我が立ち濡れし』(万2-105)
『二人ゆけど行き過ぎかたき秋山をいかにか君が独り越ゆらむ』(万2-106)

大津皇子の屍(かばね)を葛城(かづらき)の二上山(ふたがみやま)に移し葬(はふ)る時に、大来皇女の哀傷(かなし)みて作らす歌
『うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟背(いろせ)と我(あ)が見む』(万2-165)】
……………………… ………………………………………………………………………………

「これは、大伯皇女の絶唱の和歌。よくこんな和歌が、今の世に伝えられていたとは」
 緒嗣おどろく。
 この若者は、帝の謀臣、故、藤原百川の子で親の功により寵愛され、異例の出世をしている人物である。
 
 やがて帝、気が静まり、姪にしみじみと話し出す
「やはり大津皇子は、持統天皇に謀叛の濡れ衣で処刑されたのか。姉の悲痛な悲しみがひしひしと伝わる。わしとて人の子、姉(能登内親王)の枕辺の有様や、母に責められたが、早良を処断する時の苦悩まで思い出した…。これは大伴家に伝わる歌集に載っていたものだろうなあ」
 姪が言う
「陛下、万葉集のいわれをご存じで、焼き捨てをお命じなされたので?」
「万葉集?何だそれは…ううん、大伴家のその歌集の名前か、南都の銀杏並木の処で、わしが名付けた?…そういえばあの二条大路で…、それでその万葉集がどうした」
「ご存じないので、ああ」嘆息する姪。
「歌集を焼き捨てる時、永主が半狂乱で『陛下は気が狂われたか、父から聞いておられたはずだ、ご先祖の歴代天皇の歌まであるのに、全て焼き払うとは、なんと恐ろしいことを』と止めに入りましたそうですが」で続ける話は、桓武帝を驚愕させた。

 永主は隠岐の島に流刑になり、隠岐守の世話になっていた。
 気になり数日前、姪は隠岐守を呼び、聞いたところによると、
 永主が言うには、大伴家の先祖に歌集作りを命じたのは、斉明天皇であった。
 大化の改新の時退位し、後に復位した女帝で、桓武帝の先祖でもある。その名を聞くと、家持の娘への誓約書のときからの不思議な事々が氷解した。
 あの歌集の本当の目的は、甥、有馬皇子の和歌を永遠に伝えさせるためだった。
 有馬皇子が息子、中大兄皇子(天智天皇)に謀殺(絞首刑)されたことに心が痛み、和歌に込められた皇子の思いを、永遠に残すということで、なぐさめる、鎮魂のためであった。
 その目的を隠すため、諸人の和歌を紛れ込ます。さらに、
「不遇の者、罪に問われ刑死した者、それを嘆く家族の和歌も入れるように。また歌集に加えられる歌は、一首とて消してはならぬ。もし、それを犯す者がでたら、朕はその一家眷属を滅ぼそう」と渡した有馬皇子の和歌の木簡に、呪いを込められた。
 シャーマンでもあると言われている天皇である。

「また、惠美押勝が、その巻物に、謀反した奈良麻呂の名を見つけ、消そうと墨を付けだしたのを、必死に家持卿が止めたことがあるそうです。それだけでも祟りにふれて一家眷属滅ぼされたのに、全部焼き払うとは、と永主は恐れおののいていたとか。永主は隠岐守が都から戻る度、陛下はご無事であるかどうか尋ねられ、ご無事であると聞く度、安堵しているそうです」
 聞き終わって、桓武は嘆息する。祟り云々は気にはしないが、先祖も眠る広い墓地を、丸ごと破壊して海に流したのと、同じ所行をしたことに慚愧する。

「永主に思い出させて、作り直せぬか」
「だめでしょう、あまりの衝撃で、忘れ去ったみたいで、それに7千首以上(現存は四千五百数首)は覚え込めませんでしょう」
「7千首以上!ああ家持がもっと詳しく教えてくれていたなら」ためいきをつく。
「あ、確か姉がいたわ。姉を召し出しては。多少は覚えているかも」
「だめだな、筆頭の和歌の読み方で、家持と合わなかったので、後のを学ばなかったそうだ。それに、押勝の乱の前だったかな、別れる時『予言や占いに頼って、まつりごとをせず、困難に全身全霊で当たって時代を切り開くのがわれ山部の天命、だから娘と2度と会わないし、召し出そうとすれば、皇祖の天罰を受けまする』と神文起請文を書かされた。それを破ろうとしたら、その斉明帝から、とんでもない目に遭うた。だから怖くて、呼び寄せられぬ」
「あら、さようで…?そんなばかな、陛下はその頃、無位でしたわ。商人のまね事をしていたでしょう」叔父が商品輸送するのを、見送った、幼い頃の記憶が出てくる。
「まるで予言者みたいな」
「そうよなあ、あの娘から20人の妃を持つ帝になると言われた時は、笑い転げたが、遷都への協力をさせるため、諸豪族との姻戚が必要で、25人くらい妃にするはめになったがな」昔の色々な思い出を帝、浮かべる。

 姪が起き上がり、真剣な表情になる
「陛下、本当に大伴家持卿は、藤原種継の暗殺の陰謀をなさったのでしょうか。陸奥への出立の前、『陛下の遷都の大業のため、後難の憂い無きよう、蝦夷らを懐柔して東北を穏やかねにせねばなりませぬ』とお覚悟を云われましたでしょう。陛下はその言葉を無視して、佞臣のでっち上げを信じなされた。…五百井、一生のお願いです。無実の者、皆を都にお返えしください。遥か土佐の国の弟を案じるのは、もういやです」
「わかった、わしも何時も気に掛けていた。えん罪の者全員を無罪にし、新都に呼ぼう」

 しばらくして、流刑者全員に許しが出たが、長い間の流刑生活による空白からか、新しい宮仕えを厭がり、誰も戻らなかった。
 五年後、体調の不良もあり、しびれを切らした桓武帝、命令と懇願が混じった勅命を発して、全ての流刑者全員を呼び戻した。

 その1年後、(で、繰り返すが、最初の妻と子《おて》は、はるか前に亡くなっている)
 死期を悟った桓武帝は、家族、重臣が控えるなか、まず侍医、智麻呂に謝す。
「南都での、困難な、あの調べ、良くやってくれた。お前の助けがあればこそ、わしもここへの遷都が出来た。遷都の理由は世には絶対明かせぬから、お前の功績は忘れ去られてしまうが、耐えてくれい。おいおい泣くな、わしをしっかりと看取れよ。わしは亡くなるるのではなく、崩御するのだぞ。泣いて、言い間違えるなよ。ははは」
 そして甥、五百枝に謝った後、家持の子、永主を枕元に呼んだ。
「おお、永主か、54歳にしては老いているなあ。済まぬ、苦労させたのう。
 おまえ、覚えているか、『20人の妻を持つと食事が大変だね』と言ったことを、
 なに25人だと 安殿(皇太子、後の平城天皇)よ、怒った顔で横から口を出すな。
 食事どころか、悩みは続出だ、ははは、ハーハー
 でだ、ここに呼んだのは他でもない、焼き捨た万葉集のことだ。
 おまえが書き写していた分は、どこへ行った。
 たしか惠美押勝のため、写してたはずだが。
 おお、姉が嫁ぐ時に持っていったか。ハーハー
 歌集に不吉なことが起こるかも、と言ってか、さすが予言娘だ。
 永主、それから安殿よ、頼みたいことがある、
 残っている万葉集を見つけだして、官選和歌集として、必ず世に広めてくれ。
 ゴホ、ゴホ、ハーハー
 延暦四年の配流した者達は、既に許して都に還らせたが、あれは冤罪であった。ずっと後悔していた。だから、生きている者も亡くなった者もよろしく元の位に戻すように。
 大伴家持、従三位、藤原小依、従四位下。大伴継人、紀白麻呂、正五位上。大伴真麻呂と、大伴永主、お前は従五位下じゃ。それから、えーと、林稲麻呂だったか、外従五位下。それから崇道天皇(早良の追号名)の供養を諸寺で盛大に行うように。
 やれやれ、これで、あの世で家持に少しは顔向けできるかな、ゴホゴホ、ハーハー
 
 でお前の姉は?ほう、去年亡くなったか。幸せそうだった、そうか。
 思い起こせばあの晩、夜這いすればよかった。運命を変えて貰えたかもしれん。
 なに、入り口につっかい棒をしていた。さすがだ。ははは、ハアーハアーハア
 あの世で会ったら、また予言をされるかのう。でも。天皇に生まれ変わるとは、言ってもらいたくないのう。天皇はもうこりごりだ。はは。

 おやあ、お前の姉が迎えにきている。ああ、いまだに名前がわからぬ、ハアハア
 おう、家持もいる、父も、母も、姉も義兄も乙牟漏(皇后)も早良も他戸も井上皇后も、みんな、にこにこしている。
 おや小殿(おて)ではないか、ああ、会いたかった、おや…、手をつないでるのは、ああ、お前…」
 最後に呼んだ、初めの妻の名前は、誰にも聞こえなかった。
 延暦25年(806)3月17日 建設途上の平安京にて、桓武大帝崩御、齢70歳。
  

         終筆後記
 この物語の主人公山部王、後の桓武天皇は古代史上、偉大な天皇と言われているが、この物語の年(七六四)9月に起こる仲麻呂の乱の終結後、無位より従五位下に叙せられるが、それ以前の彼の前半生が、まったく不明である。史料としての『続日本紀』(桓武天皇自身が編集を命じ、自分の時世まで書かせたが)に、痕跡もない。
 で義兄の市原王が大伴家持と和歌友達、惠美押勝のご近所、などの史料はいろいろ想像力をかき立てる。
 で、にか小説家の作者は、脳みそを絞って、このようなあらすじを考えました。

 この小説は、井沢元彦氏(逆日本史)の説を多く採用させてもらいました。氏にも感謝します。
 
 最初にのせたのから5度目の手直しの再投稿です。(史実と合わない、後日談の箇所の辻褄合わせが主です)

 最後まで目を通した読者の方に謝意を表します。
続編は「 平安遥か(U)遠雷の日々」 になります。
← 前の回  ■ 目次
Novel Collectionsトップページ