作品名:Fairy Tale
作者:Ray
■ 目次
濃い黄色の液体が少女の細い血管をつたい、その華奢な身体へと滑り込んでいく。
みるみる狭まる視界には濁流が押し寄せてくる。
朦朧とする意識の中で少女は夢をみていた。
つい3日前に8歳の誕生日を迎えたばかりの少女は、いつの頃からか学校の授業中にめまいや立ちくらみに苛まれるようになり、保健室で寝込んだり早退をすることが多くなった。
それが極度の睡眠不足と栄養失調からくるものだとは気付かない少女の母親は、小さな少女の身体を重篤な病が蝕んでいるのかもしれないと、首を傾げる医者を転々とした。
そして、どんな病もたちまち治してしまう医者がいると人伝に聞き、藁にもすがる思いでこの病院の門戸を叩いた。
世間では『金取り』として悪評の高い医者だったが、当たり障りのない薬や注射漬けにしては悪銭を稼いでいる、この医師の口八丁手八丁な新興宗教の教祖まがいのあの手この手を『ゴッドハンド』と信じてやまない狂信的患者からは絶大な支持を受けていた。
横柄な態度の医者は少女をろくに診察もせずに、難しい病名をこじつけ、交通事故で負った後遺症のリハビリの為に通っている、大学病院の通院と併合して通うよう母親に告げた。
そうして始まった月に数度の診察のたびに、少女はこの何が成分が何かもわからぬ注射を打たれ、薬が身体に浸透して通り抜けるまでの間、悪夢と対峙しなければならなかった。
霞む視界に映る歪んだ現実が、薬による幻覚作用だとは知らない少女は、自分の身に迫る危険を身振り手振りで母親に訴えた。
しかし、傍から見ればそれは子供の駄々に過ぎなかった。
いつものように母親に手をひかれて少女はバスを降り、ふらつく足取りで『託児所』という名目の看板を掲げた『般若の館』の門をくぐった。
朦朧とする意識の中で、少女は幻覚の向こう側で陽炎のようにゆらめく母親の笑顔を見送り、部屋の隅に置いてある中綿のはみでたソファーに吸い込まれるように倒れると、そのまま眠り込んだ。
どうどうと音をたてたうねりが遠ざかっていく。
途端に耳を占拠する猥雑なささやき―――。
目覚めると、"食卓"にしつらえられた長テーブルのその一番端に見慣れぬ少年の姿があった。
年のころは小学校高学年といったところだろうか。
どこか都会的で洗練された雰囲気を醸し出している、色白でくっきりと深い切れ長の目をした少年は、その眼差しの奥に凍てついた清冽さを湛え、ベージュのトレンチコートにスポーツ狩りという聊かアンバランスないでたちで、長テーブルの一番端で異彩を放ちながら、目の前に置かれた飯碗を前にして身じろぎひとつせずに正座していた。
食卓を囲む子供達の視線は一様にこの少年に注がれている。
「どうして食べないの?」
小さな口から飛び出した無邪気な問いかけにも答えようとせず、少年は口を真一文字に結んだまま、刺すような視線を飯椀に落としていた。
「おかずがないからじゃない?」
子供たちが美味しそうに頬張っているものは、プラスチック製の小さな茶碗一盛の飯にふりかけを塗しかけただけの粗末な『夕飯』だった。
少女は慌てて自分の隣の小さな口を塞いだ。
そして、その無防備なひとことが"般若"の耳に届かなかったことに安堵した。
明くる日、少女はいつものように母の背に手を振ると、玄関で流れ作業のように子供達を迎え入れる宿直当番の保母達とひと言ふた言交わし、2階の部屋へ続く階段をいつもより軽い足取りで駆け上った。
曇りガラスのはめこまれた引き戸を勢いよく開けると、部屋の片隅に1人でポツンと座り、本を読んでいる少年の姿が少女の目に飛び込んできた。
おもむろに顔を上げた少年は、少女の存在など歯牙にもかけず、無表情のまま開いた本に再び目を落とした。
少女は部屋の中央に置かれた長テーブルに座り、ランドセルから教科書とノートを取り出して広げた。
すぐはす向かいでは少年が本を読んでいる。
ひとつ問題を解いては頬杖をつき、またひとつページをめくってはため息を漏らす。
少女の意識は、数字と小難しい理屈とで埋め尽くされた教科書など上滑りして、少年の興味を一身に惹く、深いブルーの夜空にいくつもの星がまたたいた本の表紙ばかりに集中していた。
それに気づいた少年が、氷の刃のようなその瞳で少女を一瞥した。
はじかれたようにノートに目を落とした少女は、胸の奥底がチリチリと燻るような感覚に見舞われた。
少しして、
「そこ、間違ってるよ」
透明な声のする方に顔を上げると、少年が無機質な笑みを浮かべ少女を見下ろしていた。
少女は言いようのない恥ずかしさをおぼえ、慌ててノートを閉じた。
薄汚れた網戸越しに煤けた月が冷たく浮かんでいるのが見える。
米飯に生たまごを流しかけ、その上から醤油を数滴垂らしたものがその日の夕飯の献立だった。
『たまごかけごはん』は子供達にとって、月に1、2度出るか出ないかのごちそうだった。
どこかぎこちなさそうにたまごかけごはんを口へ運ぶ少年を見て、少女は何故か温いもので胸の中がいっぱいに満たされる思いがした。
*
その夜、いつにない寝苦しさに少女の意識は夢と現実を行き来していた。
何度も寝返りを打つ内に、その一蹴りが決定打となり、少女は闇夜の中ふと目覚めた。
トイレに立つことに託けた『真夜中の冒険タイム』には大抵同志がいるものだが、その日に限っては皆泥のように眠り込み、深沈とした夜闇にはやすらかな息づかいだけが漂っている。
暗闇の中、少女は意を決して立ち上がると、シーツの海に投げ出された幼い手足たちを踏まぬように忍び足でドアへ近づいた。
部屋を出てすぐ左奥にあるトイレの電灯は数週間前から電球が切れたままで、怪しげな色あいで消えたりついたりを繰り返しては、ドアの曇りガラス越しに不気味な風情を映し出している。
まるで"お化け屋敷"の入り口のようなドアをおそるおそる開けると、少女は恐怖ですくむ脚をわずかな勇気で踏み出した。
階下からは保母たちの笑いさざめく声が聞こえてくる。
ふと小さな光のようなものが少女の視界を横切った。
少女は驚いてトイレへ駆け込んだ。
おあつらえむきなおどろおどろしい光加減の下、少女がトイレの壁の縁から顔半分だけを覗かせて薄目を開けると、正面の吹き抜けになっている階段の壁に、丸いぼんやりとした光が円を描きながら右へ左へと浮遊している。
幽玄のものとしてはいささかしっかりとした質感をもつ、その光が紡ぎだす筋状の束を少女は目で辿った。
光の束は階段を突き抜けるようにして、階下へ真っ直ぐに伸びていた。
もはやお化け電球などどうでもよくなってしまった少女は、軽やかな足取りで前へ歩み出ると、廊下の手すりから階下を覗き込んだ。
少女が立っているトイレの前の廊下のすぐ真下には、生後間もない赤ん坊から誕生前までの子供たちばかりが集められた託児室があり、その部屋の中央の僅かに開いた襖(ふすま)の隙間に光の束は細く吸い込まれるように続いている。
少女が目を凝らすと、襖がもう少しだけ開いた。
その奥にはぼんやりと人影のようなものがみえる。
人影がゆらりと動いた途端に、光が少女の顔を照らした。
少女はまぶしそうに手をかざしながら、手すりの下に身を隠した。
少ししてそろそろと手すりの下を覗くと、襖と襖の間の薄暗がりから、先ほどの少年が少女を見上げていた。
少年は手に細い筒状のものを握っている。
光はその筒の先端から階段の壁に向かって放射線状の円を描いていた。
少年が少女を照らしては少女が隠れる、『モグラたたき』さながらの徒労を何度か繰り返す内に、階下でドアの開く音がした。
少女は慌てて部屋に戻り、布団を頭からすっぽりと被った。
そして、お化けよりも怖い般若の足音が消えた頃を見計らい、再び布団を抜け出した。
勇み足の少女がふたたび手すりから階下に身を乗り出すと、既に臨戦体勢の少年が少女を見上げていた。
限りなくあたたかいものややわらかいもの、この世のすべてのぬくもりを拒むような瞳をほんの少しだけ綻ばせて――。
*
ありとあらゆる因業が横行闊歩するこの伏魔殿で、『男女七歳にして床を共にせず』の古く清らかな慣わしに則って、少年は夜は赤ん坊が寝犇めく部屋に押し込められていた。
ペンライトの光はいつしか幼い2人の夜遊びの合図になっていた。
あれほど嫌いだった病院も、ふりかけ飯も、父親の背中も、母親の曖昧な笑顔も、そのひとときに繋がるすべてをいとおしくすら思いながら、少女は闇の中でひたすら夜が更けるのを待った。
薄い寝床越しに伝わってくる、般若達の宴が最高潮に達するのを。
2人を隔てる鎖をあざやかに断ち切るその一瞬を。
ペンライトの光が生みだすぼんやりとした空間で、少年は少女にポツリポツリと話をした。
徒競走が得意なこと、運動会のリレーではバトンを落として悔しい思いをしたこと、
少年の両親は共働きで、職場では"店長"と"女の子"という間柄だということ、
少年には3つ年上の兄がいて、その兄が突然家からいなくなってしまったのでここへ来ることになったのだということ、
誕生日に父親に買ってもらったというサーチライトが内蔵されたボールペンは、暗闇の中で本を読むための必需品だということ。
そして、今夢中になっている本は『銀河鉄道の夜』だということ。
少年の口からこぼれる出るものすべてが、魔法の国の出来事のような輝きを纏って少女の目の前に舞い降りた。
少女が夢幻のものに矛を振るっている時も、濁流の向こう側でゆらめくガラス細工のような瞳を見ていれば救われるような気がした。
実は、カンパネルラはね―――
少年が言いかけたとき、2人のすぐ隣でかすかな寝息をたてていた赤ん坊の1人がぐずりだした。
2人は、手をにぎってみたり、頭をなででみたりしながら、どうにかしてむずかる赤ん坊をなだめようとした。
その努力も空しく、ついに火のついたように泣き出した赤ん坊の声を聞きつけた保母が
ドスドスと大げさな足音をたててこちらへ向かってくる。
2人は背にしていた山積みの布団の裏側のわずかな隙間になだれこむように身を潜めた。
少年は布団の向こう側の向背に耳をそばだてながら、人差し指を立てて唇にあてがった。
少女は少年の顔を間近に見ながら、胸の早鐘をしずめるのが精一杯だった。
やがて埃とカビの匂いとがたちこめる空間で、互いの耳を占めるひそやかな息遣いを、幼い罪を隠すように、ヒュノプスが2人をその腕へと手招いた。
*
何かが叩きつけられたような重い振動が幻想の薄膜を破り、喧騒が耳の中に雪崩れ込んでくる。
ひんやりとしたものが少女の指に触れた。
夢か現かも定かではないおぼろげな意識のなかで、少女は床に投げ出した指先に向かって転がってきたペンライトを拾い上げた。
鬱陶しいくらい明るい部屋の灯りに目を瞬かせながら顔を上げると、秘密基地のバリケードの役割を果たしていたはずの布団の山はすべて崩れ落ち、剥き出しになったその場所にペンライトの持ち主の姿はなく、代わりに自分を見下ろすいくつもの訝しげな眼と、崩れ広がる布団の間で耳をつんざかんばかりに泣き叫ぶ赤ん坊たちの鬱血した顔と、それに負けるとも劣らずの大声で、わけのわからない言葉をわめき散らしながら
何かに向かって何度も手を振り上げている般若の、その拳の先には――
少女は目を見開いた。
敷居からはずれかけた襖にうな垂れるようにしてもたれかかっていた少年は、ゆっくりと顔を上げて般若を見上げた。
憎悪と絶望だけがみなぎる双眸で。
コワサナイデ
鈍い音をたてて細い身体がもんどりうつたびに、深淵の中に見出した微かな光は粉々に砕け散り、幼いふたつの影の上にガラスの破片となって降りしきる。
コワサナイデ―――
少女は傍らにあった蕎麦枕を引きずり寄せると、その端を掴んでかたく握り締めた。
そして、少年に向かって拳を振り下ろそうとしている般若の横腹めがけて力いっぱい投げつけた。
低いうめき声を上げてくず折れるように怯んだ般若は、すぐに体勢を立て直すと鬼の形相でぎょろりと少女を振り向き、手を上げるかわりに罵詈雑言を浴びせかけた。
少女は少年の傍に駆け寄ると、般若をにらみ返した。
全身を駆け巡るざわめきにわなわなと打ち震えながら。
それは少女の胸の中に初めて芽生えた憎しみという感情だった。
少女は、頭を抱えこむようにして組んだ少年の腕の隙間から、ほんの少しだけ見えた彼の口元が淡く消え入りそうに微笑んだような気がした。
その日以来、手すりから身を乗り出しても、西日の射す部屋の片隅にも、少女は二度とあの瞳に出会うことはなかった。
名もなき残像に振り返れば、まばゆい光に手をかざせば、あの日、ガラスの破片がかすめた傷跡がただ疼くだけで―――。
*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…Secret Gaden〜Fin〜*…
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