作品名:階段
作者:斜芭 萌葱
■ 目次
 気がついたら、俺は斉藤樹だった。

「本当に、何も憶えていないんだね?」
「・・・・・・はい」
 念を押すように何度も何度も尋ねる医師に、俺は溜息交じりの返事を返した。初めこそ真面目に答えていたのだが、同じことを何度もしつこく聞かれれば、誰だってこうなることだろう。そして、白ばかりの空間の中で、痛ましくも不安げな表情をしている女性――『樹』の母親である――の存在も、俺の溜息の原因であった。早い話、この場にいたたまれなくて仕方が無いのだ。見ず知らずのおばさんが、目に涙をいっぱい溜めて自分を見ている光景など、見ていて気持ちのいいものではない。
 視線を逸らそうと少し頭を動かすと、頭がずきんと痛んだ。思わず手をやろうとして、今度は右手が動かないことに気付く。・・・・・・見てみると、その右腕にはギブスがついている。どうやら骨折しているようだ。医師の話に気を取られていて、自分の状態を把握する暇が無かったらしい。ただ漠然と理解出来ているのは、俺が今病院にいる、ということと、どうやら俺は記憶喪失になったらしい、ということだった。
 次々と突きつけられる現実にぽかんとしている俺に、医師は、やれやれ、といった面持ちで話を始めた。要約するとこうなる。――高校の体育館にある非常階段から足を滑らせ転落。頭を打ちつけ記憶喪失。ついでに頭を庇った右腕は骨折。脚も骨折。死ななかっただけ幸運だそうだが、我ながら情けない怪我の数々である。いや、『我ながら』という表現は、もしかしたら適切でないのかも知れない。怪我をした時の記憶など、今の『我』は持ち合わせていないのだから。

 サイトウイツキ。
 心の中で呟いた名前が、不安げに宙を彷徨っている。





 入院しても、退院しても、学校に通っても、俺はどうやら『斉藤樹』になりきれないようだった。誰かと喋っていても、本を読んでいても、スポーツをしていても、勉強していても、俺の頭には、何か漠然とした不安があった。
 ――俺は誰だ?
 適当で薄っぺらい笑顔を浮かべるのにも慣れてしまった。そうしてさえいれば、例え記憶が無かったとしても、周りはとりあえず安心していたから。樹ハ変ワッテナイナ。
 ――俺は誰だ?
 どう考えても、俺は『斉藤樹』ではない。それだけは確信している。俺は『斉藤樹』ではないのだ。それは俺の名前ではないし、ましてや俺の人格でもない。
 ――俺は誰だ?
 一時間が、一日が、一ヶ月が、そして一年が、悪戯に過ぎていく。俺の問いには答えることない時間が、俺を避けて通り過ぎていく。俺の名ではない名で呼ばれ、俺の人格ではない人格で扱われる時間が。
 ――俺は、誰だ?
 そうだ。
 俺は誰でもない。





「つき・・・・・・樹!」
 唐突に呼ばれて、俺ははっと顔を上げた。反射的に隣を見ると、クラスメートの男子生徒が目を丸くして俺を見ている。その彼の名前も忘れてしまったが、もとより憶える気も無い。――其処でようやく、俺は今の状況を思い出した。部活を終えて、今丁度部室から出てきたところなのである。
「おい、俺の話聞いてたか?」
「聞いてる聞いてる」
 彼の問いに適当に答えながら手を振る。しかし、彼は別に怪訝そうな様子をするというわけでもない。今の俺が『目覚めて』一年経つとはいえ、周りの反応は当初からこんなものだった。恐らく、『樹』もそんな素っ気無い、或いは適当な高校生であったのだろう。それとも周りの適応能力が高いのだろうか。
 楽しそうに彼が何やら喋り始めるが、俺はいつものように、それを聞き流している。心の中で深く深く溜息をついて、俺はふと、視界の隅にある体育館を見上げた。
 その時、俺の目はあるものを捉えた。
 無意識のうちに立ち止まったのだろうか。隣を歩いていた筈の彼が、俺よりも随分と前にいる。そのうち彼が振り返って何か言い始めるが、その言葉は、俺の耳には一言も入ってこなかった――聞き流しているわけでもないのに。彼の言葉だけではない。全ての音が遮断されている。

 無音状態の中で俺が見ていたのは、体育館の横にある非常階段。
 非常階段の頂上に座って真っ直ぐに俺を見ている、ひとりの男子生徒。

 唐突に、その生徒は立ち上がった。
『待ちくたびれたぜ、相棒』
 高さも距離もあって随分と離れている筈なのに、俺には何故か、彼がはっきりと見えている。顔立ちも、視線も、端だけで笑っている唇も、全てが手に取るように解っていた。
 鏡を見ているかのような錯覚に、俺は心の中であっと叫び声をあげた。
 ――お前、もしかして。
『そう、俺は』
 いささか芝居がかった調子で俺に人差し指を向け、彼――斉藤樹は、またにやりと微笑んだ。仕草も芝居がかっているならば、台詞もまるで役者のようだ。
『俺は、お前の忘れ物。お前はサイトウイツキ、俺は斉藤樹』
 そして指差していたその手を返し、手招きをする。
『来いよ』
 言われるまでもない。俺は走り出していた。
「あ、ちょ・・・・・・樹!」
 後ろから声がする。しかし俺は、それには全く構わなかった。どうも、彼は状況を今ひとつ解っていないようである。樹というのは、俺の名ではなくアイツの名だというのに。
 非常階段。そうだ、此処は俺の落ちた非常階段だ。
 飛びつくように非常階段に足を掛け、二段飛ばしで一気に駆け上がる。たかが二階建ての建物の階段を上りきるのが辛いのは、体育館という建物が、無意味に天井が高いせいなのだろう。この学校では、体育館の一階は食堂、二階が、生徒たちが普通『体育館』と呼ぶホールになっているのだ。
 息が弾む。距離が縮む。身体と精神の距離が縮む。
 最後の段を踏みつけ、俺はようやく最上部に上りつめた。数歩歩けば、体育館の入り口に辿りつく非常階段の最上部に。息を弾ませながら真っ直ぐに正面を見つめると、俺と全く同じ高さから俺を見ている視線があった。
 俺がいた。
 一年前に、此処に置いてきてしまった『精神の俺』が。
「・・・・・・悪い、待たせた」
 ひとつ深呼吸をしてから俺が言うと、アイツは答えた。
『ああ、待ったよ』
 つっけんどんな口調とは裏腹に、アイツの瞳は、全てを楽しんでいるようでもある。その瞳を見た俺は、斉藤樹が『素っ気無くて適当な高校生』ではないことを知った。
『なかなか俺に気付かないんだもんな。あと何年かかるかってヒヤヒヤしてた』
 アイツの言葉に、俺は思わず苦笑して首をすくめる。
「じゃ、ツイてたんだ。偶然だったんだからな」
『どうもそうらしいな』
 にっと笑ってから再び人差し指を立て、アイツは、それを俺の左胸に軽く当てた。そういえばアイツの笑みは、俺の笑みとは微妙に違っている。ああ、やはり俺は樹ではなかったのか――。胸にあるのは、間違っても失望感などではない。安心感、である。
 半分に割れた自分。俺の割れ目は、アイツの割れ目とぴったり一致する。俺がアイツという存在に全く驚かなかったのは、多分そのせいなのだろう。
『じゃ、俺は還る』
「――ああ」
 アイツの呟きに、俺は当たり前のように応えた。
 何を訝しがる必要があるだろう。イツキと樹の再会とは、樹がイツキの中に還ることなのだ。

 唇の端に笑みを浮かべたアイツの姿が、段々と薄くなっていく。
 そしてそれに従って、俺の中の『何か』が満たされていっていく。欠落していた何かが。
 ――あ、あったかい。
 アイツの姿が完全に見えなくなった瞬間、俺はそんなことをぼんやりと思っていた。

「おい、何やってるんだよ! 樹!」
 男子生徒の声で、俺はふと我に返った。そういえば、つい数分前にも似たような状況があったことを思い出し、唇の端だけで笑う。自然に笑えたのは久々だった。
 左胸に手を当て、自分の鼓動を確認する。そうだ、俺は生き返ったのだ。
 階段の手摺り越しに下を見ると、彼が文句でも言いたげな表情でこちらを見上げているのが見てとれる。無性に懐かしくなった俺は、わざとらしいほどに大きく手を振って、彼に呼びかけた。
「何でもない! すぐ行くから待ってろよ――慶悟!」

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