作品名:勿忘草
作者:亜沙美
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勿忘草
序章
僕は、病院を出た。ああもう、とやるせなかった。思わず、大通りに飛び込もうとした
けれど、白バイが走ってきたので、できなかった。次は踏み切りに飛び込もうとしたけ
れど、やっぱり白バイが走ってきた。まあ、ちょうど交通違反の取締りが厳しい時期な
のだ、という単純な理由だったけれど、僕にとって、それは、必要の無いものだった。
というより、みんななぜ、僕が死ぬのを邪魔するんだろう、と思った。
「君君、こまるよ。こんな踏み切りに立って!」
大柄な巡査が怒鳴りつけた。
「ちょっと、交番まで来てもらおう。」
僕は巡査と一緒にパトカーに乗った。いっそ、架空の犯罪でも作ろうか、と僕は思った。
パトカーはすぐ止まってしまった。僕は車を降りて、交番に入った。
「警視、連れてきました。電車に飛び込もうとしていました。」
すると、タバコを訝しげに吸いながら、もう一人の警察官が出てきた。そして、
「あら!」
といった。
「警視、はやく取調べを、」
「馬鹿、なにを言っているんだ、この方は、東京芸術大学の教授、偉大なる箏曲家で
ある、稲葉慎之介先生であらせられるぞ!」
「へ?」
「どうもどうも先生、いつも先生の演奏、テレビで拝見してますよ。この間の新曲、
『勿忘草』、あれを、非番の時は毎日聞くんですよ!」
僕はため息をついた。稲葉慎之介というのは、偽りない僕の本名だ。しかし、警視
という、音楽に縁なぞない人が、この名前を知っているとは、名前という者は、何
て恐ろしい者だろう。
「すいませんね、内の部下が変なことしてしまって、おい、謝れよ!」
「は、はい、すいませんでした」
巡査は脂汗を拭きながら答えた。
「それにしても先生、お顔色がよろしくないようですな。お風邪でもひかれました
か?」
僕は、本当の所、高熱で苦しかった。もともとただの風邪、もしくは流行の、イン
フルエンザだと思っていた。病院というものはあまり好きではなかったし、まだ36
なので、そんな大病をするような歳でもないだろう、と思っていた。
「ええ、まあ、ちょっと熱っぽいといいますか、、、。」
「おい、この方を送って差し上げろ。住所は、ここだ。」
警視が、指示を出した。
「ははい、しっかり送らせていただきます。先生、もう一度パトカーに。」
と、言うわけで、僕は、パトカーで家に帰った。
家は、ごく普通の一軒家。僕は有名になったからといって、贅沢に暮らす芸能人は
嫌いだった。僕は母と二人暮しだ。また、苦しくなってきた。母になんていったら
いいだろう、母が、逆さ鏡になるのは、そう遠くはないだろう。そうなるまえに、
何でもいいから「事故死」としたかった。そうすれば、母がマスコミの取材で苦労
しなくなるだろうし。やっぱり、あの時、電車に飛び込んでおけばよかった、あの
警視のせいだ、と、僕はのろった。
パトカーが、僕を下ろした。僕はのろのろと、玄関をあけた。
「おかえり」
母の声がした。
「風邪だって?やっぱり。」
僕は何も言わないまま、自室に引き上げてしまった。母がおかゆをつくったという
が、食べる気がしなかった。
それから何時間たっただろう、いつの間にか朝になっていた。
「慎之介!」
母の怒鳴り声がした。母はいつもこれだ。子供の頃は、厳しい鬼ばあみたいだったけ
ど、だんだんに慣れてしまっていた。僕がめをあけると、紙切れを握りつぶして、今
までで、一番怖い、母の顔がそこにあった。
「こら、この馬鹿!」
母は、僕の頬を平手打ちした。
「まったく、こんな大事なことだまって、おまけに母ちゃんに別れも言わずに逝こう
なんて、なんていうわがままをいっているだね!」
馬鹿、には慣れている。父が亡くなって以来、母は、厳しくしなければならないとお
もってこういう言葉を使って僕を育てた。
僕は周りを見回した。僕は机に座っている。目の前のパソコンには、練炭自殺と書か
れている。つまり、調べ物をしながら寝てしまったということだ。で、母の持ってい
る紙切れは、「診断書」という文字が、デカデカと書かれている。僕が何を言おうか
まよっていると、
「本当に馬鹿だね、母ちゃんより、先に死ぬなんて、十年も早いよ!まだ助かる道が
あるんなら、なんで使わないのさ、確かに陽子線治療は大変なのかもしれないけど、
それで助かるっていうんなら、母ちゃんは喜んで応援するよ!成功失敗なんて、やっ
て見なきゃわからないじゃないか、失敗したら、またお医者様に相談すればいい。
それだけのことじゃないか!それなのにもう諦めるなんて、母ちゃんは一度も教えた
ことはないよ!」
と、甲高い声がした。
「やめてくれよ、死なせてくれよ!」
と、僕は思わず言い返した。
「母ちゃん、僕がだんだんに衰弱して、しまいには意志の疎通もできなくなるんだよ。
陽子線なんて、たやすく言わないでくれよ。選択肢は、肺の片方をとるか、陽子線し
かないんだよ。もし、失敗したら、母ちゃん、今よりもっと悲しくなるじゃないか。
だから、こうやって、意志が通ずるときに、、、。僕もかなしいんだよ。だって、ま
だ36なのにさ、もう肺癌になるなんてさ。タバコも吸うわけでもなし、酒も一滴も
飲めないのに。恥ずかしいじゃないか、それだったら、、、」
「不慮の事故死に見せかけて、先に逝こうと思ったんだね!そんなのはね、親孝行で
もなんでもない!あんたはすぐそういうこと言うけどね、残された人間の悲しみって
のは、普通に亡くなるよりももっとすごいんだよ!父ちゃんのとき、よくわかったよ。」
「結局は同じじゃないか!いくら坊主や神父がいけないことだと言っても、そんなの
はみんな嘘っぱちに決まってるさ!」
「ああそうかい、そんなこと平気で言うんじゃ、あんたは芸大の教授にはなれないね。
もう、その考えを改めるまで、このうちの敷居はまたがせないよ!さっさと出ていき
な!」
母は、僕を無理やり立たせ、玄関から押し出し、ピシャンとドアを閉めてしまった。
僕は行く当てが無いまま、適当に歩いた。このまま、死ねたら最高だと思った。少し
あるくと、高いビルがあった。あそこから飛び降りようと思った。そのビルが何の施
設かもわからないのに。
僕は胸痛と戦いながら、エレベーターにたどり着いた。屋上へ行きたかったが、屋上
にはこのエレベーターは到達しないようにできていた。僕は、別のビルを探そう、と
おもい、踵を返して、玄関に向かった。
すると、三味線を持った、中年の女性とぶつかった。
「あっ、ごめんなさい、」
と女性は言った。僕は座り込んだ体を、何とか立ち上がらせようとしたが、
「あら、芸大の、、、稲葉先生!まあ、すごく苦しそうなお顔だわ。私たちの部屋
で、ちょっと休んでからお帰りになったらどうですか?わたしたち、ここの専属団
体なんです。」
と、女性は、明るく言った。僕は何とか立ち上がり、
「あの、貴方は、どんなおしごとを?」
とだけ聞いた。
「私たちは、自助グループです。私、こういうものです。」
彼女は名刺を渡した。見て見ると、
「グループひのき、総長、中島伸子」
と書いてあった。
「みんな、何かしら事情をもっているかたがたです。中にはお体がご不自由なかたも
いますので、お休みするスペースを設けております。良かったら、お休みしていって
ください。」
僕はそうすることにした。横になれば、胸痛も取れると思った。
中島さんは、僕を、一階の小さな部屋に招待した。
本当に小さな部屋だった。五人ほど座れる、テーブルと奥に安楽椅子が置いてあった。
「遅いじゃないですか、代表。」
最初に声をかけたのは、紋付羽織袴を身に着けた、車椅子に乗っている男性だった。彼
の着物の袖口から、夾竹桃の入れ墨がちらちら見えた。
「ああ、ごめんなさいね。今日は新しいお仲間を見つけたのよ。芸大の、稲葉先生。」
「こんな、入れ墨男と一緒で、大丈夫?」
「あら、藩先生も入れ墨の世界大会で優勝したじゃありませんか。それだって芸術だと
私は思いますよ。ねえ、稲葉先生。」
中島さんは誰に対しても明るい。
他には30代後半の女性と、おばあさんが座っていた。
「えーと、彫師の、藩先生と、若い奥さんは、小沢優子さん。おばあさまは佐藤愛子
さん。自己紹介は、一人一人のお話でわかると思うから、お話を始めましょうか。
じゃ、稲葉先生、適当に座って。みんなのお話を聞いていてね。気分悪くなったら、
むこうの安楽椅子を自由に使って。じゃあ、小沢さんから、お話をしてもらいましょ
うか。」
語りが始まった、、、。
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