作品名:ここで終わる話
作者:京魚
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ある時を境に、僕の人生は変わった。
それまでは一歩兵として腕の立つ部隊の中にいれば、国の平和を護るヒーローでいられたはずだ。
その誰もが陥りやすい錯覚から抜け出し、もっと高くと天を求め出したのは、本当に些細なボタンの掛け違い。
神の悪戯だ。
今朝は風が強かった。
時折大きな風の塊が吹くと、かたかたと窓ガラスが揺れる音がする。雨こそ降らない快晴だが、横殴りの春一番に外室は控えたい。
うるさく揺れる窓の近くに、大きな仕事用のデスクがあった。木製でかなり傷んでいる。
デスクの上にはインクとペン、沢山の書類と分厚い本が乱雑に置かれていた。はたから見ればそれは机ではなく物置だ。乗り切らないものは絨毯張りの床にそのまま置かれている。
そんな中、椅子の真ん前に気持ち程度空けられ、なんとか作業が範囲がある。ここを起点とし、始めは何もなかったデスクも、不必要もしくは保留になった仕事の残骸が積もりに積もって、一角を残し山になってしまったのだろう。
しかもその唯一のスペースで記入途中の書類には、零したコーヒーが綺麗な用紙をびしょびしょに濡らしてしまっている。上質紙は染まり、文字は滲んでいた。
そして窓とデスクの間に一人の男が立っていた。暑苦しく密集したワークデスクとは裏腹に涼しい顔で窓を向き、珊に肘を着いて身を委ねている。年は二十代半ばくらいで、白みかかった金髪に蒼い瞳をしている。どこまでも穏やかで優しさに満ちた瞳をしていた。
どうやら彼が、この書物の山を築き、書類を洪水に巻き込んだ本人だろう。コーヒーに染まった書類には目もくれず、ただガラスの向こうで荒れ狂う一本の木を見ていた。
コンコン
ドアをノックする軽快な音が後ろ耳に聞こえ、反射的に男が振り返った。よく通る声で返事する。
扉の向こうで入室許可を求める声が聞こえた。壁一枚挟んでいるため、いささかくぐもった感じがする。許可を得ると、高い声の持ち主がドアを開け中に入って来た。
男が振り返って笑顔で迎える。
「悪いね、いつも」
「いいえ。もう慣れましたよ」
高い声の主は男にしては小柄だが髪も瞳も栗色で、印象がいい。
彼は部屋に入るなりデスクに近づき、持ってきたふきんで机の上を拭いた。邪魔な物は片付けながら効率よく直してゆく。
「あなたは大切な書類ばかり汚しますね」
高い声で溜息を付く。皮肉はない。
「ありがとう」
片付け終えるのを見て、部屋の主が優しく微笑んだ。この笑顔には言い返す術を与えない。
「本当に片付けが上手だね、メイル」
「誰だってできます。シェイさんがおかしいんですよ」
男、シェイはまたも笑った。綺麗な蒼いガラス玉をきらきらさせる。
「メイルが来てくれて助かったよ。前までいた掃除婦さんはとてもよく怒る方でね」
苦笑交じりの言葉を止めるように、メイルの高い声が割って入った。
「僕は掃除のためにきたんじゃありません。いつになったら部隊に入れていただけるんですか」
両掌を硬く握り足を踏ん張る。少しだけ驚いたシェイが宥めるように優しく言った。
「だめだよ。危ないんだから」
「そんな事はわかっています」
「わかっていないよ。君には無理だ。それに国は変わった。世界も変わりつつある。需要がなくなれば真っ先に削られるんだ。わざわざ危険な真似事に首を突っ込む意味がどこにある?」
「…」
メイルはいつも通りの返答に、悔しそうに瞳を僅かに細めた。
「僕はねメイル、戦いの中で沢山の死を見た。仲間も上官も失い、掛け替えのない親友を失った。沢山の絶望を見た」
悲しい声だった。久々のその声に、途端に怒りは消え弱気になる。
「わか…ってます」
「君には、そんな思いをしてほしくはない。いいや、本当は誰にもしてほしくはないんだよ」
淋しい声だった。
切ない声だった。
「どうしてメイルは自ら死に行こうとする」
「僕は死に行くために部隊に入りたいんじゃありません。僕はみんなを守りたいから」
「何度もいうけど君には無理だよ。君は背が低いし力もない、戦闘には不向きだ」
「…」
「責めているんじゃない。君は頭脳面で部隊の一人としてちゃんと力を発揮している。皆の役に立っているんだよ。なのにどうしてみすみす死に急ぐ」
「…」
メイルは歯を食いしばって悔しさを飲んだ。彼の言うことに偽りはない。今の仕事に不満があるわけでもない。
しかし満足はできない。仲間がいつ血みどろの戦いを繰り返すようになるだろう中、悠々自適に部屋で湯気の立つお茶を飲むしかない自分に、どう満足ができるだろう。いざというときは一緒に戦いたい。それが彼の唯一無根の願いだった。
「メイル、心から自分を犠牲にして人を守りたいと思うような綺麗な人はね、戦いなんかしてはいけないんだ。どんなに強い意思を持っていたとしても、戦いは人の心を蝕み汚す」
「あなたは、汚れてなんてないじゃないですか」
「そんなことないよ俺だって、昔は綺麗だったんだ」
世の中の何も知らずに、僕はここにやって来た。
今からおおよそ五年前のこと
涙なくしては語れない、悲しい悲しいお話…
掛け違えられたボタンはそのまま二度と戻されることはない。
開けられたボタンホールには、すでに新しいボタンがはまっているのだから。
牙を向く、金色の…。
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