作品名:神社の石
作者:紀美子
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 外から聞こえてきた足音がドアの前で止まって、彼が来たのがわかった。今日は寄るとは言っていなかったが、私の部屋は会社に近く、彼はよくこうやって予告なしにやってくる。玄関の鍵が開く音がして、そのあと、ドン、という鈍く重い音が続いた。チェーンがかかっていてドアが開けられないのだ。私は立ち上がって玄関に歩いていった。今はもう前のように走っていくことはない。彼も前のようにドアのすきまから私を呼んだりはしない。無表情に玄関の前で立っているだけだ。
「たのんでたやつ、とった?」
 中に入ってきた彼は私の顔を見るなり言った。私は、うん、と答えて、部屋の奥にもどった。彼はコートも脱がずにテレビの前に行って、私が本当にたのまれていた番組を録画したかどうか確かめはじめた。私は床に置いた雑誌を引き寄せながら聞いた。
「新しいの、いつ買うの?」
「来月」
 彼は間を置かずに答えて、私の方を振り向いた。
「なんで、もう録画たのまれるの嫌だって言わないわけ?」
 それは私をからかっているような口調で、責めているようにもおこっているようにも聞こえない。でも私には彼の本心が見える。彼は私の本音を言えない性格を指摘し、あざ笑っているのだ。
「べつに嫌なんて思ってないよ」
 私は雑誌の記事にもどり、メジャーリーグの試合の音が流れるのを聞いた。はたから見れば、私たちは安定した、仲のいいカップルに見えるらしい。彼は人前でも私の欠点を冗談まじりにあげつらい、私は無理して笑顔を作り、じゃれあっているようにみえるよう言葉を返す。友人に彼のことを相談しようとしても、誰もまともに取り合おうとはしなかった。みんな私がすこし考えすぎなだけだと言い、もっとふたりで遊びに行くといいと的外れなアドバイスをした。
 彼はテレビの前に座り、ときどき早送りしながら試合を見ている。彼流の効率のいいテレビの楽しみ方だ。彼のそんな流儀が最初は面白く、次にいらだたしくなり、このごろはほとんど侮蔑のようなものしか感じなくなった。私はもうなにが悪かったのか考えることをやめている。私たちはただ単にうまくいかなかっただけなのだ。そもそも最初から、私たちはお互いを自分とはちがう種類の人間だと感じていたような気がする。

 


 いったい、人は人生を通して何度、同じ魂を持った人間と出会うのだろう。同じ目を持ち、同じ音を聞き分け、選ぶ言葉は違っても心に抱えた同じ思いを語る人と。私は混沌とした子供時代にひとり、絶望とばか騒ぎのくり返しだった青春時代にふたりと出会い、彼らの記憶は今も私の胸に刻印のように残っている。青春時代に出会ったふたりの男と私は当然のように恋に落ち、それはどちらも当然のように苦い別れで終わった。だが、子供時代をともにすごした彼女との間には、そんな結末はなかった。当時の私が狭い世界しか知らない子供だったということを差し引いても、彼女は突出した個性を持った、特別な人だった。あれから15年以上経った今も、彼女を超える人間にはいちども会ったことがない。11才にして彼女はすでに成熟した頭を持ち、目の前の単純な事実さえ見極められない大人たちよりはるかに人生を知っていた。
 彼女に心酔していた当時の私は、あの決断に従うことは正しいのだと思っていたが、成長してしまった今はもう昔ほどの確信は持てない。私はあの頃の一途さを失い、代わりに分別を身につけた。私のしたことは大人の常識では理解しがたい行為で、私の中の社会性をたっぷりしみ込まされた部分は、あのときのことがよみがえるたび、脳の奥で声にならない悲鳴を上げる。
 だが、きっと今の私が当時にもどったとしても、あのときと同じことをするに違いない。迷いながら、苦しみながら、それでも、彼女の言うがままに、何度でも。
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