作品名:黙殺する勇気
作者:かつまた
■ 目次
 突然ですけど私、福祉には並々ならぬ関心がございますの。だってそうでしょ?この世の全ての人間は、一人きりでは生きる事さえ間々ならないんですもの。あなたにしたってそう。あなたが今日施した小さな愛。それが少しずつ成長しては熱を帯び、徐々に大きくなっては数を増し、地球上のあらゆる生き物の間に、奇跡となって現れる。それを思っただけで、想像しただけで、ああ、また私の心を強く揺さぶった。愛をもたらした。あなたは慈愛の天才ですわ。勿論私のそれだって、須らくこの町に満ち溢れ、通りを行く顔も知らない人たちに、温かい風となって染みとおる。あなたは感じて下さるかしら?いえ、きっとそうして頂けると確信しています。ああ、何てすばらしい。完璧なる愛の方程式に、私は恐怖すら覚えてしまう。この世の摂理を思っただけで、この小さな心臓は爆発してしまいそうだわ。
 随分、前置きが長くなってしまいましたわね。今日はあなたに、是非お話ししたい事がありますのに、私、お喋りがあまり得意ではないものですから、どうも話が的を射てないようで、主人にもよく叱られますわ。お前の話は支離滅裂だって。でも主人は、そんな私のお喋りを嫌な顔一つしないで、ちゃんと聞いてくれますし、私だって主人の話を、まあ、家の主人はあまりお喋りな方ではないかも知れないけど。普段はどちらというと、私が一方的に喋って、だって仕様が無いじゃない、主人が勤めに行ってる間、私は一人ぼっちなのよ。寂しくなって、多弁になっちゃうのも無理ないでしょ。あ、だからといって、私が主人を振り回してばかりいる、駄目な主婦だと思わないで頂戴ね。
 主人が会社に行ってしまうと、私はすぐさま家事に取り掛かりますわ。掃除、洗濯、買い物、どれも手抜きなんてただの一度もした事がありません。それでも私たち夫婦には、残念ながら子供が出来なかったので、午前中にがんばってしまえば、午後はゆっくり過ごせますの。ワイドショーなんかに興味は御座いませんので、近所のレンタルビデオショップで借りてきた映画ですとか、とり溜めしておいたドラマなんかを、紅茶を飲みながら鑑賞しますのよ。私の唯一の趣味と言えるわね。ほんと、世間の主婦たちに比べれば、どんなに恵まれた環境にいるか。その点に関しては、主人にどれだけ感謝しても足りないくらいですわ。
 でもある日、ちょっとした事件がありましたのよ。私がいつものように、テーブルの上に紅茶とケーキを用意して、大好きな映画を見ていたら、隣の部屋から、妙な声が聞こえるじゃありませんか。そうだ。言い忘れてましたわね。私たち夫婦は、マンションに住んでいますの。まあ、マンションといっても、家の一軒ぐらいは簡単に買えてしまうほどの値打ちは御座います。なにぶん、主人の仕事上、どうしても通勤に便利な都心でないと駄目だったものですから、ああ、私ったらまただわ。ほんと、やんなっちゃう。ええと、どこまでお話しましたっけ?そうそう、映画を見ていたら、隣の部屋から変な声が聞こえてまいりましたの。お隣さんといえば、つい最近引っ越して来たばかりですから、私、びっくりしちゃって、耳を澄ましました。そうしたら、どうやら子供の声、それも大泣きに泣いた叫び声だったんです。まあ、ご近所トラブルなんかになったら困りますから、下手に苦情も言えないじゃありませんか。弱りましたわ。これじゃあ、折角の午後の楽しみが、台無しですもの。
 私、夜になって、さっそく主人に話しました。隣の部屋から子供の泣き声が聞こえてくるって。そうしたら主人は、ビールを一口飲んでから、隣の住人についての意見を述べ始めましたわ。なんでも、隣に住んでる家族のうち、旦那さんとは通勤の際によく一緒になるんですって。家の主人は、その気になれば、誰とでも気さくにお喋りが出来る性分ですし、隣の住人ともなれば、仲良くしておいた方が良いじゃありませんの。それはそれは愛想よく、天気の事ですとか、世間の関心事なんかを話しかけたと言ってました。ところが隣の旦那さんときたら、何を聞いてもむっつりとして、全然話をしようという意思すら見受けられなかったそうです。はああ、これは何か虫の居所でも悪いのかなあと思って、その時は家の主人もそれ以上は世間話をしないで、会釈だけして別れたんですって。それからというもの、いつ出くわしても挨拶一つなくて、主人がどれだけ気を使ってもまったく無視というんですから、ありゃあ相当の変わり者だと、こちらの方で先に根をあげてしまったそうですの。
「僕は仕事がら、いろんな人と接する機会があるが、ああいうタイプは出世できんね。それどころか、いつでもリストラ候補だよ。協調性0、コミュニケーション能力0、その上猜疑心が強くて、上司にでも平気で突っかかる。典型的な癇癪持ちだ。」
 アルコールも手伝ってか、最後にはかなり痛烈な主観も述べてましたけれど、話を聞く分には、成程もっともだと私自身思いましたわ。
 主人の意見を得て、いよいよ私の心配は、日常の幸福を静かに犯し始めました。だって、昼間は隣の旦那さんだって仕事に行ってるんだから、家に居るのは奥さんとお子さんでしょう?癇癪持ちと一緒に住んでるなんて、考えただけでも怖気の振るう思いですわ。もしかしたら、旦那さんとの衝突に起因して、奥さん自身も精神の健康を病んでしまい、結果お子さんにも難しく接してしまう、そういう可能性だってあるんじゃないかしら。ああ、お隣の家の問題とはいえ、私、随分考え込んでしまって、家事も手につかないし、気分も優れないし、ほんと参りましたわ。
 それから一週間くらいが経ちました。勿論その間、子供の叫び声は途切れた事がありませんでしたわ。私は気の滅入る思いで、どうにか家事をこなして過ごしていました。その日は夕方になって、夕飯の材料を買い忘れている事に気付いたものですから、慌てて身支度をして、スーパーへ行ったのです。やっと目当てのものを手に入れて、これなら主人が帰ってくるまでに間に合うと、安堵の心持で家路に着く途中、とうとう例の母子に遭ってしまいました。
 子供は泣いていました。間違いようがないじゃありませんの。私は思わず、天に祈りましたわよ。母親は自分の子供を罵倒しながら、腕が引き千切れるほどに引っ張って、あれは引きずってと言った方が妥当かもしれません。兎に角、凄まじい形相でした。何か汚物でも扱うような態度ですもの。私、気を失いそうになりましたわ。母子は玄関の手前で、悶着を行っていましたから、嫌でも近くを通らざるを得ません。見ないふりをした方が良いのかしら?一瞬、考えました。でも、子供がそこで泣いているのに、素通り出来るはずないじゃありませんか。
「どうかなさいましたの?お子さん、泣いていらっしゃるわ。」
 蛇に射竦められた蛙というのは、まさにあの事を言うんでしょうね。私、殺されるかと思いましたもの。
「ウルサイ!クソガキ!ダマレ!」
 こんな人が同じ人間だなんて、信じられません。私が間に入ったものですから、母親はいっそう激昂して、一刻も早く子供を家に引きずりいれようと、鬼の形相で子供の太ももを蹴り上げます。私のせいなの?私が何も言わなければ、子供はもっとましな扱いを受けていたというの?恐ろしくなって、私はその場から逃れて、自分の家に入りました。でも、暫くは心臓が高鳴って、生きた心地などしません。どうにか呼吸を整えて、気持ちを落ち着かせようとグラスに水を注ぎ、それを飲もうと口につけた途端、隣の部屋から、例の叫び声ですわ。私、気が狂うかと思いました。
 勿論その夜、主人に話しました。主人は悲哀に満ちたため息をついて、自らの考えをとうとうと述べ始めたのです。
「僕たちに何が出来ると言うんだい?せいぜいが、児童福祉所に電話する程度だよ。でもそれだって、問題の解決に繋がるかは大いに怪しい。あの手の家族は何度となく、然るべき職員の訪問を振り切って、自らの罪を隠し続けてきているはずだ。いや、それを罪だと認識させる事すら難しい。密室で行われる行為に、他人が口を挟むのは、かなりのリスクを伴うんだぞ。」
「それじゃあ、黙って見てろって言うの?酷いわ。あなたは昼間居ないけど、私は毎日子供の叫び声を聞いて、自分の胸が張り裂けそうな気持ちなのよ。それは分かるでしょう?助ける方法が無いにせよ、それは分かってくれるでしょう?」
「当然だとも。しかし、君は悪くない。何の罪も犯してない君が、自分を責め苛むのを、良しとする配偶者がいるかね?僕としては、君の安らぎこそ第一に守らなければならないものだ。そのための優先順位に従って、行動を決定せざるを得ないね。」
 主人の気持ちだって、痛いほど判りました。私が次の日、児童福祉所に電話するつもりだと言っても反対しませんでしたし、私の心持を、最大限尊重してくれたと思います。でも最後にこう付け加える事を忘れませんでした。君が直接手を出すな。巻き込まれるような手段には、絶対に出てはならない。たとえ不幸な結果になってもだ。
 翌日の朝早く、主人が出て行った後、時間を見計らって、児童福祉所に電話しました。案の定、あの親子については、何度となく対面訪問を試みたそうです。しかし一度も成功しなかった。全てにおいて門前払いを受けたと、電話に出た職員の方も仰っておりました。事件にならないと動けない。でも、事件になってからでは遅い。職員の方の心痛が、受話器を通って伝わってくるようでしたわ。
 それでも、その日の日中、児童福祉所の職員による、粘り強い接触交渉が行われました。私は玄関の扉に耳を当てて、固唾を呑んで一部始終を聞いていました。お子さんに会わせて下さい。そうすれば、我々の一人合点だというあなたの主張も証明されるでしょう。職員の声がマンション中に響き渡ります。だから、今息子はいないと言っているでしょう。今は、祖母の家に行ってるんです。母親の反論も、いつぞやのヒステリックな言動からは程遠い、理性ある対応に聞こえます。それが全部芝居なんだって、この扉を開けて皆に教えてやりたい、私は何度となくそんな誘惑に駆られました。しかし、聞けば聞くほど、この問題がどんなに解決困難なものかが分かってくるのです。子供の姿が見えないかぎり、どうにも職員は手出しの仕様がないんですもの。
 問答が30分ほど続いたかしら。職員たちはすっかり疲労して、祖母の家から帰ってきたら連絡するよう、母親に言い残して去ってしまいました。ああ、こうやって悲劇は育っていくのね。私は絶望のうちに涙を流し、主人が帰ってくるまで自分の精神が持つものやら、暗闇に放り出されたみたいに、まったく寄る辺のない時間を過ごしていました。
 主人が帰宅するや否や、私は今日あった出来事について、自分の主観を交えず、ただ事実のみを整然と話しました。主人は静かにそれを聞いて、何も言わずに鞄の中から、包みのようなものを取り出しました。開けてみると、ヘッドホンです。
「これをつければ、何ものにも囚われずに、また好きな映画を見ることが出来る。」
 私はもう、全ての言葉を使い果たしたように、体の力が抜けてしまって、黙ってそれを受け取り、それきり話題を変えました。
 それから一ヵ月後、私は幸福でした。自分の幸せは自分で守るのだという堅い決意で、自らの耳を塞いでしまったのです。でもある日、ヘッドホンを装着していても聞こえてくるくらい、玄関を叩く騒々しい音がしたものですから、玄関まで出て行って、扉は開けずに、どなたか尋ねてみました。すると、マスコミだと名乗るので、取材には答えずに、慌ててワイドショーのチャンネルに合わせてみました。
 そこに映っていたのは、私たち夫婦の住んでいるマンションでした。とうとう隣の部屋で、子供が虐待の末、死に至ったのです。今、社会問題になっている虐待事件を取材するために、報道各局がこぞって押し寄せ、マンションの下は人だかりで物凄い騒ぎでした。私は放心状態で、リポーターが指差す先にある、私の住んでいる階を、画面越しに眺めていました。そして段々と、徐々にはっきりと、キャスターや解説者の意見を述べる声が耳に入ってきたのです。とんでもない親だ。児童福祉所は何をやっていたんでしょう。周りの大人たちは、子供のサインに気付かなかったのか。マンションの住人は、社会人としての義務を果たせなかったんじゃないのか。議論は続きます。すると何故でしょう?私の中で沸々と、怒りに似た悲しみが、あらゆる神経を侵食するように、内奥から湧き上がってきたのです。しかしそれは、正直申し上げて、加虐者に向けられたものなどではなく、テレビの中で、好き勝手に意見を言い合う、出演者たちに対するものでした。
 私は、自分自身でさえ驚くような、自己弁護の矛先を見い出したのです。一体、群れる事しか能のないマスコミに、この手の問題をとやかく言う資格があるのでしょうか?事件に至る経過も知らずに、未然の措置を講じ得ない行政の瑕疵もうっちゃっておいて、野次馬根性むき出しで、ただ秩序の歪が露見されればメシの種だとでも言わんばかりに、社会正義の担い手ぶって、報道の自由だ、取材の自由だと、傷口に塩をぬる行為が果たしてそんなに神聖なものなのかしら。権利の抽象性に託けて、全ての強引な人権侵害を矮小化できるなら、まず自らの所属する集団の集団ゆえの諸自由に対する絶対的不可能性を報道するべきですわ。
 私にどうしろと言うの?私が何を怠ったと言うの?社会全体で共有すべきリスクを、局所的に化膿した傷口の中に押し込み弄んで、分析どころか飛び火だらけ、これではジャーナリズムの存在意義も論理構成も、先物取引の現実的様相さながら、絵に描いた餅ではありませんか。私はマスコミのいなくなった、賄賂が横行し、不正義が蔓延し、尚、メディアによる問題のすり替えの無い世界がもたらすであろう消極的平穏に、思いを馳せずにはいられませんわ。
 そんなわけで私、福祉には今もって、並々ならぬ関心がございますの。だってそうでしょ?この世の全ての人間は、一人きりでは生きる事さえ間々ならないんですもの。あなたにしたってそう。あなたが今日施した小さな愛。それが少しずつ成長しては熱を帯び、徐々に大きくなっては数を増し、地球上のあらゆる生き物の間に、奇跡となって現れる。それを思っただけで、想像しただけで、ああ、また私の心を強く揺さぶった。愛をもたらした。あなたは慈愛の天才ですわ。勿論私のそれだって、須らくこの町に満ち溢れ、通りを行く顔も知らない人たちに、温かい風となって染みとおる。あなたは感じて下さるかしら?いえ、きっとそうして頂けると確信しています。ああ、何てすばらしい。完璧なる愛の方程式に、私は恐怖すら覚えてしまう。この世の摂理を思っただけで、この小さな心臓は爆発してしまいそうだわ。


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