作品名:平安遥か(T)万葉の人々
作者:ゲン ヒデ
次の回 → ■ 目次
平安遥か(T)万葉の人々
 
       田村第にて
 梅の香りがほのかに匂う、渡殿を通い、中央の寝殿へと、中年の貴族と少年が、案内されていた。
 天平勝宝3年(751)初春のことである。 
 ここは紫微令、藤原仲麻呂の邸、奈良京左京区の4千坪の広い拝領地、田村第である。
 後には、さらに南に拡張され8千坪にもなるのだが。
 この屋敷の主人、藤原仲麻呂は、今や権勢者に登りつめていた。
 紫微令という役職は、本来、光明皇太后に奉仕する組織の長である。
 ところが、令外の官(律令の規定外)なので、皇太后のご威光により、太政官の諸大臣の力を超え、国政を牛耳りだしたのである。
 
 多くの来客が、陳情などの所用で参上する。
 この廊下で、陳情を終えた国司らしき人物と出会わすと、この来訪の貴族、軽く挨拶する。少年も静かに頭を下げる。
 相手が笑いをこらえているような表情で去るのを、少年は認めた。
「父上、あの方も、酒宴の席で、父上の宴会芸を見たのでしょう」
「そうだなあ、居たかなあ」
「紫微令さまには見せてはいないでしょうねえ。思いだし笑いをなされると、話がしずらいでしょう」
「残念ながら、上の方々には見せておらぬ。同僚や下の者達だけだ」
「残念がることは、ないでしょう。酔ってあんな芸を披露するなんて」
「そんな済んだ話はもういい。それよりも、紫微令さまに、お前こそ、失礼のないようにな、ああ、頭巾がよっているぞ」
父は子の頭巾を直す。父親、笑えば恵比寿顔そっくりになるが、普段は穏やかな貴族である。

【後の室町時代まで、男性は、頭に被り物をするのが常識であった。だから、自宅内でくつろいでいる時以外、この小説の登場男性は、子供と僧侶以外は、いつも、布の袋の被り物か、高貴な者は漆紗冠をしている】

寝殿の入り口に着く。
 当時の建物の内部には壁で仕切られた部屋の構造はまだない。
 帳(とばり)を下げて仕切代わりにしていた。
 また上を見上げれば、天井板はなく、屋根裏の構造が丸見えとなっている。
 几帳で囲まれた区画に、藤原仲麻呂はいた。
 藤原仲麻呂は、先の陳情者からの書類を片づけていた。
 取次役に案内された人物を見て、すぐさま近づき、自分の席の茵(敷き布団)に案内し、下座に座った。
 この頃は、権力者と思えぬほど腰が低い態度で、世人に接していた。
 客人、困った顔をして、遠慮がちに茵に座った。少年は仲麻呂の背後で平伏する。
「紫微令様、弱りますなあ、従2位のあなた様より官位が低い私めが上座にいるのは。居心地が悪うございます」
「いやいや、白壁王様は、上皇陛下(聖武上皇)の御娘婿、帝(孝謙女帝)の義兄、立場が違います。えーと、であなた様の官位は…」相手の浅紫の朝服の色をちらっと見て
「正4位の下でしたか」
「その下の従4位の上で」
「ほ、それは気が付きませんでした。早速、御位を上げるように、諸方に働き掛けましょう」
「いえいえ、このようなお気遣いはなさらなくても。今のままの方が気楽でございます。実は、本日お伺いしたのは、我が長女、能登と市原王とに婚姻の話が起こりまして、この話、進めるのに何か不都合がないかと、ご相談に参りまして」
 
 高級貴族間の婚姻を結ぶにあったって、念のために、この権力者の内諾が、処世上必要であった。
 ちらっと、西隣の市原王邸の方のを見、白壁王の方に仲麻呂は顔を戻す。
「ほう、それはめでたい。大いに進めなさっては。市原殿は大国家事業の大仏造営の総指揮が多忙なので、嫁どころではない、と日頃言われておられたが。さては御娘に人目惚れかな」
「昔からの近所付き合いで、娘の幼い頃まで知っております」
「ほう、では色々といきさつがあったのでしょうなあ。では、婚礼の時には、お祝いの品を何か献上しなければ、何がいいかなあ」考え込む仲麻呂。
 白壁王、思い出したように言う。
「粗まつな物ですが、娘の母の里から届いた蜂蜜を、ご賞味いただきたく持って参りました。これ山部、お見せせよ」
 二人の後ろに控えていた少年は、しずしずと進み、仲麻呂の前に錦織の包みを置き、解いて中の小さな壷を見せる。口にはコルクが嵌められている。
 少年はすぐに後ろに戻り、平伏する。
「これはこれは、貴重な物を。このようにお気遣いなさらなくても」
 蜂蜜は滋養の薬として珍重されていた。
 控えの者が、壷を運び退けた後、仲麻呂、後ろを向き、少年に
「我が顔を見て、驚いた表情をなされたが、どうなされたかな」
「ああ、言い忘れましたが、それは、娘の実の弟、私めの長男の山部と申す者で、14歳になります」来客の貴族、白壁王、あわてて紹介する。
 
 で、子に向かって
「あれ程、失礼がないようにと申していたのに。どうしたのだ」
 少年、顔を上げて平然と
「権勢揺るがなき紫微令様は、さぞかし威厳のある怖いお顔をなされておられるだろう、と思っていましたが、なんと美男子なお方だ、と吃驚したので。道理で皇太后さまや姫の陛下(孝謙天皇)がお気にいるはずだと、納得しました」
 確かに45歳の壮年ながら、整った若々しい2枚目である。
「これこれ、なんということを」父咎める。
「あはは、素直なお子ですなあ。言われれば確かにそうかもしれません。色男で出世したことなど、自慢出来ることではありませんな」でも、まんざらでもない表情である。
「それだけではございません。優れた見識、立派な統率力、実行力があるから、あなた様は引き立てられたのはありませんか」
白壁王あわてて追従する。
 謙遜する言葉で答えて、仲麻呂は山部に向かって
「山部君だったかな、きみは精悍な顔だねえ。将来威厳に満ちた顔になるかなあ、わたしの方がうらやましい。日に焼けて、黒いし。体格もいいし頑強そうだ。なにかしているのかね」
「遊猟がすきで、郊外でよく馬を駆けています、弓矢、刀も好きです」
「ほう、なるほど、武官向きか、だがご聡明そうだから、お父上のお仕事を助ける文官のほうが…」考え、白壁王に向かい
「確か、内親王様がもうじきご出産だと聞いておりますが、皇子(みこ)がお生まれになると、山部君は官位に就きにくくはありませぬか。失礼ながら、陰位(おんい)では遅くなりますなあ」

【数年前、聖武上皇に気に入られて、伊勢斎宮であった帝の長女、井上(いのべ)内親王の婿に、白壁王はなった。前からの妻達を差しおいての、正妻が現れたのである。で、男子が生まれるとその子は摘男、となると山部は庶子に変わり、親の7光での官途に着くのが、遅くなるおそれがあった】

「学生(がくせう)になられてはどうですかな。大学寮で学んで、試験に通り、官吏になられては。大学寮にはうまく取り運ぶよう、頼んでおきますよ」
 悪くない話に、白壁王は、よしなにと頭を下げた。

次の回 → ■ 目次
Novel Collectionsトップページ