作品名:三日月夜
作者:甲斐 京
■ 目次
 窓を開けると、冷えた空気が頬を撫でた。日増しに冬の匂いの強まる秋の夜更けの、澄み切った夜気は私が大好きなものの一つだ。
 窓を開けたのは部屋の空気を入れ替えるためだったのだけれど、何気なく空を仰いで、私は思わずうわぁ、と感嘆の声を上げた。
 漆黒に塗り潰された空にまるで誰かが小さく傷をつけたような、銀色の細い三日月。
 濃い闇の中で静かに光り輝くそれは言い表しようもないほど綺麗だった。
 私は窓を閉めると、急いでクローゼットからコートを引っ張り出した。ベッドの上に放り出していたバッグからマルボロとライター、携帯用の灰皿を取り出して、コートのポケットに突っ込む。
 これで準備は完了。
 電灯を消し、部屋を出ようとしてから、机に上に広げたままの英語の課題のことを思い出した。そういえば提出は明日だったっけ・・・・・
 でも私はすぐにその事実を頭から追い払った。
 今夜は三日月夜だ。それも滅多にないほど、極上の。
 月見の晩だった。
 玄関で靴を履きながら今更のように靴箱の上に置かれた時計を見ると、針は午前一時半を回ったところだった。いい感じの時間帯だ。
 私は家を出た。母さんが酔って帰ってくるかもしれないと思い、鍵をかけるかどうか少し迷ったけど、結局鍵を閉めた。母さんが出て行ってからまだ三日しか経っていない。帰ってくるのは最低でも三日後になるはずだったし、父さんに至っては考える必要もなかった。何より、無人の家に鍵を掛けずに出かけることは私のポリシーに反する。
 外は思った以上に寒かった。コートの襟を掻き合わせて、私はできるだけ静かに歩く。アパートの階段を下りるときはさすがにカンカンと音がしてしまったが、この夜の静寂を破りたくなかった。
 道路にも人気はなくて、自販機の白い明かりがぼうっと辺りを照らしているだけだった。夜中に人や車の姿が見られるほど、この辺りは都会ではない。でも、女子高生が深夜に外を歩くことが噂になるほど田舎でもなかったから、私はいつでも自由に夜を独り占めすることができる。
 そんなことを考えながら、私は静かな夜道を歩いて、やがていつもの場所に着いた。
アパート群から少し離れた場所を流れる小さな川に掛かる、小さな橋。広さはきっと車一台通るのがやっとといったところだろうが、存在自体忘れられているかのようなこの橋には、もしかしたらそれだけの広さも必要ないかもしれない。こんな道を使わなくても、もっと広く整備された道路も立派な橋もこの近くにちゃんとあるのだ。余程の物好きでない限り、この道を通ろうなどとは思わない。
 時に忘れられ、世界の影にひっそりと身を隠すこの場所が私は大好きだった。
 背中を手すりに預けると、ポケットからマルボロを取り出し、咥えて火を点けた。小さなオレンジ色の光が闇の中に灯って、いかにも温かそうに見える。大きく吸った息をゆっくりと吐き出すと、煙はふわふわと形を変えながら、すうっと闇に溶けていった。
 目線を上に上げると銀色の三日月が視界に映る。僅かの汚れも、曇りさえ知らない凛としたあの姿は、きっと私の足の下を流れるこの川の水面にも映っているのだろう。
 冷たい水音が耳に心地よかった。
 眼を閉じてしばらくそうしているうちに、気付くと随分長い時間が経っていたらしい。最初に手にした煙草はとうに短くなって、すでに三本目に入っている。吸殻はきちんと持ってきた灰皿に捨てた。ちゃんと処理しているのに、どうして子供は煙草を吸ってはいけないのだろう。吸殻をぽいぽい道端に捨てる大人より、ずっとましだと思うのだけれど。もし健康を心配してくれているのだったら、それこそ私には無用なことだ。私が肺がんで死んだからって、心から悲しんでくれる人は一人もいないのだから。
 私が中学校に入学する頃には、父さん達の中は険悪になっていた。毎晩夫婦喧嘩が続いて、二年生の時には泥沼の状態で別居が始まった。父さんは職場の近くにアパートを借りて暮らしているのだと言うけれど、実際は昔からの愛人さんの家で同棲しているらしい。それ以来母さんは夜中に家を出ることが多くなって、今では一度出て行ったら一週間は帰ってこない。短くても六日間、私の知らない誰かの家に寝泊りしている。
 私は地面にうずくまった。また煙草が短くなって、縋るように新しい一本を取り出す。ぽっと小さな明かりを灯した。耳の中を冷たく水音が流れ去っていく。
 ―蛍みたいだ。
 何故だか突然、そんなことを思った。

 あれはいつのことだったろう。随分前のことだった気がする。確か私はまだ小学生にもなっていなくて、父さんと母さんに手を引かれながら、夜、おばあちゃんの家の近くの川に蛍を見に行った。土手に三人で座り込んだけれど、結局蛍は見れなくて、蒸し暑いし退屈だしで、私は泣き出してしまった。父さんに抱かれて、母さんにあやされても、全く私は泣き止まなくて、そのとき、困り果てていた母さんが、ふと空を見て言った一言が不思議に鮮明に思い出された。 
 ――あら、きれいな三日月。

 どうしてこんなことを思い出したのだろう。今までずっと忘れていたのに。
 つん、と鼻の奥が痛むのを感じた。私はそれを夜気で体が冷えたせいにして、慌ててコートの襟を掻き合わせて立ち上がる。
 大丈夫。これぐらいで風邪なんか引くほど、私はヤワじゃない。思い出で泣いてしまうほど、弱くなんかないんだから。
 ぐいと鼻をこすって私は歩き出した。
 澄んだ静寂の闇の中、月だけが静かに煌々と輝いている。

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