[馬の耳に風]

MAKING APPEND NOTE
八王子 歯医者 への返事
 平三は只だ力なく「えい」と云ふのみであつた。時には酒を飲んで帰ることもあつた。
 近頃お桐の顔を見たことがなく、又言葉をかはしたことも殆どなかつた。それでお桐の自分に対する心持は如何だらうと気にかゝつて来た。自分の冷淡なのを恨んで居ないだらうか。少くとも慊らなく思つて居ないだらうかと疑ひ出した。友達の冷淡を恨んだお桐の言葉を思ひ出さずには居られなかつた。且つ又母に対しても気拙く思つた。見舞に来た人達が、
「お桐さんも善う無うて、御心配でございませう。それでも貴方も帰つてござつてお桐さんも嬉しうございませう。貴方も心残が無うて……」などと平三に挨拶されると、彼は何だか皮肉を言はれる様にも思つた。
 此前東京の友達への手紙に妹の病気のことを言ひ、本人も周囲の人々も今は只だ死を待つのみだと書き添へてやつたら、返事旁々見舞の手紙をよこしたが、其中に、
「……令妹御重病の趣き嘸々御憂慮のことと察します。折角帰られた君の心持もほゞ解することが出来ます。御病人の為めにはせめて出来るだけの事をして上げ給へ……」
 といふ一節があつた。其最後の一句が彼の胸に非常に強く響いた。そして今更ながら自分の冷淡であつたことを後悔した。もう取り返しがつかぬと思つた。出来るだけの事どころではない。せねばならぬことすらもして居ない。初めから冷酷に憎悪嫌厭の情を以てお桐に対して居たのではなかつたかと思つた。今や悔恨の念がむら/\と湧いて来た。同時に彼には珍らしい優しい温い情が起つて、妹の前に懺悔して一緒に相擁して泣いてやりたいとの念も起つた。不図子供の時分の事を想ひ出した。

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